第1章 羨望と母体 最近非常に頻繁に行われることの多い美容整形がテーマに掲げられている。(42)美容整形の手術を求める人たちのメンタルヘルスの有病率が高いという所見は確かに気がかりなことだ。しかしもう一つ重要なことは昨今のSNSばやりでバエることが再生数にもつながるとしたら深刻なことだ。しかし考えてもみよう。今やバーチャルな形でいくらでも整形(加工?)が可能なのだ。それにそれを問題視するなら、お化粧はどうなのだろう? これ程公認され、それどころかマナーの一種とさえ見なされているという事が本書では触れていないのは面白いと思った。何しろお白いなどの顔に塗料を塗るという風習は整形の原初形態であり、それこそ時代と文化を超えて存在していたのである。 私はこの身体の問題については、自分の理解や自覚は不十分であることを本書を読みながら痛感したわけであるが、それでもこの章で私が違和感を持ったのは、例えば次のような表現だ。(48)「美を追求することは、身体をデザインしなおすことで自己を誕生させるという万能感をエナクトする方法であり、それによって他者(母親)や、ひいては「欲望の対象」に依存する体験から逃れる方法であった。」これってあまりにブンセキ的ではないだろうか?私は整形は一つの変身願望であり、自分の殻を破る行為であると思う。もちろんそれは一歩間違えればBDDの様に底なしの闇に足を踏み入れることになるかもしれないが、それ自体は程度が軽ければ一種の「遊び」に近い。新しい技を覚え、新しい服を着、新しいファッションに身を包むという行為は、それほど病理的に考えなくてもいいのではないか?おそらく同程度の「遊び」は言葉の使用にも通じる問題だ。人は軽い嘘や誇張をしばしば用いて自分をより正しく、美しく、強く見せようとする。この遊びとしての化粧⇔深刻で自己破壊的な整形手術への希求というグラデーションがあるのではないか、という事なのだ。
第2章 いったい誰の皮膚なのか
レマの身体への関心は、まなざしというテーマにも向けられる。他者の視線も、自己の視線もその向けられる先は身体を含む。他者の視線が自分を飲み込む性質のものならば、それは去勢してくる存在でもある。この章で登場するBさんという男性のクライエントは、屍姦幻想という事で他者を死者とみなすことで女性に入っていくことが出来たのである。屍姦幻想にまで至るというのは極端かもしれないが、母親のまなざしの問題は、臨床的にこれほど重要なものはない。飲み込んでくるような母親の視線の由来は、間違いなくそれが愛着の時期の最初の対象であったことの名残であろう。母親はその時、子供を自分の延長と考えている。子供が母子が密着しており、対象として意識されず、母親と「地続き」であると体験するのは、母親の側としても同じなのであろう。そして母親の感情は子供のそれとして同一視される傾向にある。ところが母親の側の「地続き」が強烈で、子供の側の感受性が強いと、これがフラッシュバックしてしまう。例えば父親のことをさして「お父さんはうそつきの悪魔のような人よね」と母親に言われて、娘はそれに対して抗いようがないと感じる。すると父親に対して優しい感情を持っていても「そうよね」となる。これは別の人格の形成につながることになるだろう。他方ではASDの「軽い質量の自己」は吹っ飛んでしまう。するとどちらにも偏らない人にとっては、母親の存在はその者がトラウマになりかねないのだ。
第3章 純粋な決定の秩序
本章はサイバースペースに生きる若者という現代的なテーマを扱う。患者の一人がいみじくも語っているように、サイバースペースは自分が身体を持った、受肉した身であることbeing-in-a-body (ちなみにこの訳はハイデガーの「世界―内ー存在」に準じて 身体―内―存在)としてはどうか?)を忘れさせてくれる空間であり、非常に居心地がいいものの、それは偽りの空間であり、いずれは現実に引き戻されざるを得ない。患者の抑うつもちょうど家から出られないが外出せざるを得ない患者の苦悩を語っているようである。
(93)「アバターという仮面が与える匿名性の錯覚のせいで、人々はしばしば自分自身について通常の場合よりもはるかに多くのことをオンラインで開示する…オンライン上での交流は、一部の傷つきやすい人々に、想定外に剥き出しになってしまったと感じさせる可能性がある」とこれまた警句である。アバターという仮面が与える世界を楽しみ、遊ぶことは、おそらく現代の世界では不可避的である。昔ではできなかったことが出来てしまうことで、私たちは確実に違う世界に生きている。そしてそこでの規範、それに則ったうえで享受できるもの、そして危険性を一つ一つ体験しながら学ばなくてはならないのであろう。
第4章 過去なき現在
「思春期の性的移行における時間的統合」という副題がついているが、より正確には、「その破綻」である。ここに登場する「自分は男の子の身体に閉じ込められていた女の子だと確信していた」ポーラのケースは性再適合手術を受けた後も「手術前には何もなかった。自分の人生はクソだった」(133)とし、いわばそれ以前の人生を全否定するようなことを言う。そのようなケースの場合には手術を受けることが新しい人生を手に入れることにはつながらず、その意味で手術後も過去の人生との連絡が必要であることを示したケースと言える。愛着の問題に根本の問題があった場合、そのようなトランスセクシュアルなケースをどのように扱うかについて改めて考えさせられる章である。