2025年11月14日金曜日

特別寄稿 2

 フランス、アメリカでの体験

 私自身の体験から出発するしかない。私はフランスのパリで一年間、米国で4年間、精神科のレジデントトレーニングを合計数年にわたって受けたが、それは私たちの学年の6~8名のクラスの討論に次ぐ討論であった。あるレクチャーが行われたり、あるケースが提供されるとまずは十分なディスカッションの時間が与えられる。というか授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえある。そして講師がディスカッションをクラスに開くと、そのあと日本での同じ機会のように,しばらく(あるいは延々と)沈黙が流れるということはまず欧米ではありえない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって消しにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりして、ディスカッションが始まる。そしてしばしばその全体の流れに方向性が見いだせず、様々な意見が出て応酬があり、それで授業が終わってしまうということがある。いったいこのディスカッションに意味があるのか、皆が様々な意見や感想を持つということが分かっただけで、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまい、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。