ところで一方では北山理論に接近しながら、私自身のこれまでの甘え理論も思い起こさなくてはならない。この北山論文が掲載された書物(日本語臨床3「甘え」について考える. 星和書店、1999年)に、私は「甘えと『純粋な愛』という幻想」という論文を載せてもらっている。これまで述べてきたことと繋げるために、その論文における私の論旨を思い出したい。
私がこの論文で言いたかったことを一言で言えば、「人は誰でも他者から純粋に愛されたいと願うものである」ということである。それは土居先生の次の言葉に発想を得たものである。
「精神分析療法へと向かわせる意識的な動機が何であろうと、その裏にある無意識的な動機の主たるものは甘えやその派生物である」(Doi. T (1989) The conept of amae and its psychoanalytic implication. Int.REv. Psychoanal. 16 349~354)
私たちはある関係に入る時しばしば、「相手から無条件に受け入れられる」という幻想を抱く。もちろんやはりそうはならなかったという厳しい現実を、早晩突き付けられるのであるが。
そして私は一見意味不明なことを書いている。曰く「甘えは願望充足と防衛の両側面がある。」(p.223) 願望充足とは、幻想のレベルで私たちのこの願望を満たしてくれるという意味で、防衛というのは「たとえ今の関係ではうまく行かなくても、どこかにきっと無条件的に受け入れられる関係があるだろう」と思わせてくれるからである。そして母親との関係の中に似たようなものを体験して入れば、あれと同じことはまた起きるかもしれないと思いやすいのかもしれない。
もう一度整理しよう。
欲求充足的な側面・・・純粋の愛の疑似体験
防衛としての側面・・・それは現実には得られないという事実に直面することからの防衛
そしてもう一つかなり重要なことを言っている。それは甘えは「能動的な意味で受け身的な」情緒交流だということだ。受け身的とは向こうが愛してくれることを期待するからだが、能動的なのは二つの意味でである。
①甘えさせる対象に結構執拗にそれを求めるから。
②甘えることで相手の「甘えさせたい願望」を充足させるから。
この①に関しては、実は北山先生の甘える側は上から下への愛を待つという意味で受動的であるという説に反対するもので、土居先生自身が次のように言っている。
「私が強調したいのは、甘えはそれを満足させるためには優しいパートナーが必要となるが、それは必ずも受動的な状態ではないということである。甘える、というのは自動詞であり、すなわちそれは甘える人にある能力を想定している。つまり甘えを引き起こすような行動を開始し、それに浴するという能力である」Doi,T (1992) On the oncept of Amae. Infant Mental Health Journal, 3:7-11.
ここを読む限り、土居先生自身はかなり甘えを能動的なものとしてとらえていたことになる。