2025年4月8日火曜日

支持療法を支持する 4

 最後は人間性で直す? 私は常日頃から思うのだが、真の治癒機序は人間性なのだ。日本の精神分析で押しも押されもせぬリーダーたちはみなある種の人間的な大きさを備えている。彼らの行う解釈はその人間性のオーラを纏っているのだ。彼らの様にふるまい、彼らの様に解釈をすることで彼らの様に患者を変えることはできない。平凡な、しかし誠実な臨床家のためにPOSTはあるのだ、と言いたい。

しかし私は反精神分析、ではない  最後にPOSTにエールを送る私は、それでも「反精神分析」ではないことは改めて述べておきたい。私は分析家であるし、週4,5回のセッションを経験することはとても貴重でぜいたくな体験であると思う。これ以上は昨今の「週一回」の議論に関わることなので、別の機会にゆっくり論じたいところだが、私は治療は高頻度であるに越したことはないという立場だ。治療とは偶発性に満ちた出会いとエナクメントの場であり、週4回の方がそれらが生じる可能性は相対的に高くなろう。  しかし数少ないセッションでも貴重な出会いが生じることはあるだろうし、その意味で週4回の精神分析でしか得られないものはないと思う。そしてこの出会いとエナクトメントを中心に据える事こそ現代的な意味で「精神分析的」ということであり、その意味では週一回でも支持療法でも立派に「精神分析的」たりえるのである。

(以下省略)


2025年4月7日月曜日

支持療法を支持する 3

私が2年前にPOSTという試みの話を聞いた時、「マジか?」と正直思った。 分析を学び実践する若手の間でそのような動きが起きるとはにわかには信じられない。あの支持療法の議論に精神分析の内側から真正面から取り組むなど、なんて大胆で向こう見ずなのだろう、と。でも結局はこのPOSTの議論も、フロイトの教えにしたがった(フロイトに忖度した)、本質的には無意識内容の解釈につながる治療指針に沿ったものであろうと想像した。だからPOSTの本を買って読むこともなかった。私が初めてこのPOSTの具体的な内容を知ったのは、関連書(山口貴史氏の「サイコセラピーを独学する」)を読んで度肝を抜かれたからだ。そしてこの山口氏も参加しているPOSTの動きを著書を購入して読んで見て思った。「彼らは真剣なのだ‥‥」。 今回このような題での一文を寄せることになったのは、私の側からの申し出であることは断っておかなければならない。彼らの迷惑にならないことを祈るばかりである。 この度POSTの書籍の第2弾が出版されることになったわけであるが、今後この動きがどのような方向に行くか分からない。彼らが掲げた「目標は適応状態の改善である」に始まる8項目の一つ一つにケチをつけたり反論を加えたりする人だっているだろう。しかし私はそれらは些末なことだろうと思う。私にはPOSTを支える根本から支える理念が心情的によくわかる気がするからだ。 精神分析家たちが陥りかけている自己愛への反省。クライエントファーストの考え方。そしてその背後にある倫理の問題。そこにはある一つの共通したテーマがある。 読者はPOSTの試みを目にして、「これは精神分析なのか?」と思われるかもしれない。しかしそこに語られる用語、転移、逆転移、解釈、など、ことごとく分析的な概念なのである。POSTは精神分析の用語で語られた、従来の精神分析を超克する試みであり、その意味で精神分析的なのだ。(精神分析という母国語で語られた、とはそういう意味である。)

2025年4月6日日曜日

不安とパニックと精神分析 11

 ルイス・コゾリノの本に書かれているパニックに関する記述は意外にそっけない。「パニックにおいては人ははしばしばストレスや葛藤とパニックの関連性に気が付かない。なぜならそれらの関連性は神経的な隠れ層 hidden neural layers にあるからだ」(p243)。ここで彼の本にはしばしばこの「隠れ層」という表現が登場するが、それは結局ニューラルネットワークの隠れ層、という意味である。そしてこの本の第2章「脳を再構築する‐神経科学と精神療法」という章にはニューラルネットワークの図まで出てくる。彼は20年以上前のテクストで、すでにニューラルネットワークと心を同一視しているところが驚きである。 コゾリノはパニックの説明に際して、「扁桃体の持つ一般化 generalization の傾向」という言い方で次のように言う。扁桃体がその一般化の傾向を持つことにより、パニックは内的、外的な刺激に反応して起きるようになる。扁桃体はそれこそ生下時から機能しているが、海馬―皮質(特に眼窩前頭皮質 OFC) ネットワークは後になってやっと発達してくる。そしてこの海馬―皮質ネットワークこそが扁桃体を抑制する作用がある。ということは、これが働いていないうちの、つまり生まれて初期のパニックは、それこそ圧倒的かつ全身体的な体験 overwhelming and full-body experiences となる。そしてその体験は決して皮質に記憶としては保存されず、直感的な知識 intuitive knowledge として立ち現れるという。(p245). つまりこういうことだ。怖れによる扁桃体の発火が生む記憶(トラウマ記憶)は生のままで脳の皮質下に蓄えられ、それがのちのパニックを引き起こすのだ。(私はこれまでパニックとフラッシュバックは「似ているもの」、という理解をしていたが、このコゾリノの説明は、両者は同根、ということになる。) コゾリノは青斑核についても論じる。これもパニックを考える際に極めて重要だ。ここは脳の中で一番広範囲に投射されている。ここはノルエピネフリンの生産拠点であり、要するに非常事態で脳や交感神経系を介して体全体にアラームを鳴らす役割をする。青斑核は扁桃体の記憶回路に「print now (トラウマ記憶を作成せよ!)」という命令を送る。これは海馬―皮質経路があまり活動していない時にでも反応する。つまり夢の刺激であってもFBが生じることになり、その意味でも実質上パニックとFBは区別がつかないということか。ところでp246には、扁桃体の中心核が青斑核を刺激し、そこから交感神経が刺激されると書いているが、要するに恐怖刺激→扁桃体中心核→青斑核→扁桃体に「トラウマ記憶を作成せよ」と指令を出す、と行ったり来たりしながらの命令を送るという仕組みらしい。ところでこれに関連して例の速いシステムと遅いシステムの話になる。 タクソンシステム taxon system(=速いシステム、または扁桃システム amygdaloid system)これはスキルやルールや刺激―反応の連環を獲得し、それ自身はコンテクストフリーであるという。つまりその学習に関連して時間や場所が記憶されるわけではない。そしてもちろん第一義的に無意識的だ。そしてこれが手続き的、ないし暗示的記憶に関わる。それにくらべて現場システム locale system (海馬―皮質経路を中心とする)これは認知マップや時系列的な記憶、意識的な表象に関係する。正常のトラウマのない養育においては、これらの二つのシステムは連結されている。ところがトラウマ的な幼少時をおくると、これらが解離するのである。

2025年4月5日土曜日

不安とパニックと精神分析 10

さて以上を下敷きとして、本論の中心テーマであるパニック、恐怖と不安について考えてみよう。おそらくフロイトの現実神経症の記述にみられる極端な性欲論に基づいた理解はなされていないであろう。ただし性愛性に関しては実はトラウマ関連障害やフラッシュバックの問題と直結している。 パニック障害についてはこれが精神力動的治療の対象となることは多い。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならないが、それが様々な日常的なストレスに関連していることが示される。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは、実はかなり深い意味を持っている気がする。親の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、マッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。 さていろいろ文献を当たっているうちに Louis Cozolino (2002) The Neurosciene of psychotherapy - Builidng and Rebuilding the Human Brain. W.W. Norton and Company. (邦訳あり)が、少し古いとはいえ最良のテキストという気がしてきた。彼は扁桃核について、パニックやトラウマとの関係を深堀りして解説している。 

2025年4月4日金曜日

不安とパニックと精神分析 9

 ここでいったんおさらいをする。この論文の方向性がまだ見えてこない。改めて執筆依頼文を読むと「精神分析の視座からのパニック・恐怖と不安の理解と対応」とあり、パニック症に関する記載を詳しく、とある。そうか、その方向性で書かなくては。やはりこのような依頼文はしっかり読まなくてはならない。しかも流派ごとの理解と対応、とある。そして認知行動療法と森田療法、「マインドフルネス、催眠、ポリヴェーガル」を書く先生がそれぞれいらっしゃる。


精神分析と不安、パニック


まず総論から始めよう。不安と言えば神経症症状の一つの典型と言えるが、その神経症は精神分析的治療の対象とされる。そしてフロイトはその業績の中で不安について極めて多く論じたことが知られる。それについて簡単にさらってみよう。精神分析においては、不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、「それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。この意味で不安の存在、もしくは発現は葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)しかし現代的な精神分析においてはこれに代わり、より現実的で患者の側に立った議論がなされているようである。これに関して、ギャバ―ドは次のように論じている。(GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice.  5th edition. CBS Publishers & Distributions.)

精神分析理論において不安は中心的な位置を占めるが、フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。①マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるもの。② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであり、後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis において問題になる。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたのだ。後者は単に患者の性的活動を高めればよいことになる。

その後1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。いわゆる不安信号説で、それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。(p.258)

ギャバ―ド先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、それ自身は意識レベルに表れるために受け入れられるものであるという。それの抑圧がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。ギャバードさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。

超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。

Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder.  Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.

しかしギャバードさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。この古いモデルをいったん示して、でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎない、と伝えることがギャバ―ドさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。


2025年4月3日木曜日

支持療法を支持する 2

 POST・支持療法が生まれるのは必然的であった

さて私は支持療法についての議論がこのようにして生まれたことには必然性があったと思う。まず第一に週一回、ないしはそれ以下の頻度で(隔週50分、週一回30分、月に一度50分など)で行われる心理療法が圧倒的なマジョリティであり、そこで「ユーザーのニーズ」(山崎)を最重要視することなしには心理療法が存続しえない(さもなくばユーザーがドロップアウトしてしまう)からである。しかし精神分析と同じ治療論をただ単に週一回の臨床に「平行移動」するわけにはいかない(藤山)。週4回以上の精神分析のエスタブリッシュメント達からは、「週一回で精神分析と類似のことが出来るはずがないし、軽はずみに同じ理論を用いることは許されない」と言われてしまう。ただ伝統的な週4回のやり方に対するユーザー(患者)離れが生じたことは、ユーザーも精神分析とは違う何かを求めていたことを意味するのだ。そして精神分析の内部から生まれた表出的(分析的、洞察的) ⇔ 支持的という表現に沿って、「週一回」は「支持的療法」と表現するようになった。しかしこのような図式が生まれた際には、支持的アプローチは表出的(分析的)なそれと対等の価値をあたえられていたはずである(Wallerstein, Gabbard )。そして週一回の支持的療法にもそれなりの治療論や作用機序の議論があって当然なのだ。ただし同時に支持的療法は「分析的=表出的」ではないものというスティグマを背負うことになったのも事実なのである。

それゆえにこの支持的療法を精神分析の世界で行うことには多大なる困難が生じるのは当然である。1970年代に精神分析の世界で突然異質のことを言いだしたコフートのように、「それは私たちが慣れ親しんで、基本理念として持っている治療論とは全然違うではないか。それは精神分析ではないのだ」という反発を受けて四方八方から矢が飛んできて、非常に肩身の狭い思いをすることになる。(よくぞコフートは耐えたものだ。若手の信奉者たちが支えたのだ。)
だから支持的療法について論じるためには、その提唱者たちは狭い精神分析の世界を離れて新たな独自の臨床や学問活動の場を求める傾向にある。そしてそれが実際に欧米で行われたことであるが、日本ではそれが精神分析協会の内部で、しかも今のところは精神分析と共存する形で生じているのだ。
私はこれは非常に日本的な現象だと思う。思うに古澤平作先生が1930年代に精神分析を持ち帰り、週一回~2回を開始した時に、古澤先生は非常に「常識的」で「適当」だったのではないかと思う。それも日本的な意味で。古澤はこう考えていたのではないか。「精神分析は素晴らしい。しかしフロイト先生の熱意はよくわかるが、毎日分析というのはやり過ぎではないか。『毎日治療に来なさい』と言ったら患者さんはびっくりするだろう。『私はそんなに重症なのですか』と驚かれる人もいるだろう。まあ週1,2回から始めようか‥…。」ここを書いていて私は少し自信がなくなったので前田先生の著書を読んでみた。するとやはりそうだった。

前田重治氏(前田重治 (1984) 自由連想法覚え書-古沢平作博士による精神分析. 岩崎学術出版社)によって語られている古沢先生の言葉を引用しよう。精神分析の開始にあたって古沢先生は前田先生に次のように言ったとある。「当面は、一週二回にしましょう。これまでの僕の体験では、毎日続けてやることは、かえって小さいことにとらわれ過ぎて、全体を見失うことがありますので。」(p.18)

「えー!!!」である。天国でフロイトが聞いたら激怒するのではないか。しかも古沢先生は「僕の経験では」とフロイトに堂々と異論を唱えている。フロイトはこれを聞いて次のように思ったかもしれない。「あのコザワとかいう男はちょっと分析を受けただけで日本に帰って、勝手なことをしておる!! やはり少し高いお金を払ってでもワシから分析を受けるべきだったのだ!(古沢先生はウィーンで教育分析を受ける際に、フロイトのセッションの料金が高すぎたのでお弟子さんのリチャード・ステルバから低料金で分析を受けた。)
でもこの古沢先生の異論はそれなりに分かる。所詮肉食の西洋人と違い、草食系の私たちは彼らほどのエネルギーや情熱に欠ける。まあ、ほどほどでいいんじゃないか?ということだ。私の知っている小此木先生も週一回のプラクティスに疑問を抱かずにそれを「精神分析」と呼んでいた。彼もその意味では「適当」だったが、それはそれで古き良き時代のように思える。アムステルダムショックにより日本の分析家の見識のなさが正され、すべてが正常化に向かったというのも何か違う気がする。戦後のアメリカ文化の流入とともに戦前の日本文化を過剰に否定した日本人と重なる気がする‥‥。全く話がそれてしまった。

2025年4月2日水曜日

不安とパニックと精神分析 8

 Kendler(1992)らの研究では、恐怖症はいわゆるストレス―脆弱性モデルによくあてはまるという。つもり生まれつき気弱であることと同時に環境の要因が大きいということだ。特に17歳以前で体験する親の死や、過保護と同時に放棄する親の姿勢が大きな要因となっているという。また養育期の母親のストレスが大きな影響を及ぼすという研究もあるという(Essex et al. 2010) 。 SADの話に移るが、そこでは患者の大脳皮質下の活動が過剰となるという特徴があるという。これはある意味では当たり前だ。人前では扁桃核などがビンビンに反応してドキドキしてしまうのだ。わかる、わかる。また上述のジェローム・ケーガンの子供時代の「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」という特徴はSADにも当てはまるとギャバード先生は記述する。そしてSADにはSSRIなどの抗うつ剤だけでなく、精神療法が有効であるというのだ。しかしCBTと比べると、後者に軍配が上がるという。そして力動的な治療者であっても患者を恐れる状況に直面化することを奨めるという。

不安障害の場合、恐れている状況に直面しない限り、無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks を改変する事は出来ない。なぜならそれは扁桃体や視床などの皮質下の経路を含み、それは解釈などの認知的、大脳皮質的なアプローチでは改変できないからだという。フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないということだ(2003,p835)。

つまりこういうことだ。精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、それは結局表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことに繋がっているのではないかというわけである。

 ギャバード先生が最後にあげるのが全般性不安障害(GAD)であるが、この障害はいろいろ問題があるらしい。とにかく併存症が多く、このGADと診断される人の8~9割は別の診断を同時に持っているというのだ。そのうえでギャバード先生は、GAD患者が訴えるであろう様々な身体症状に対して寛容であるべきだという。そしてそのうえで、それらの症状がより深いレベルの懸念 concern (うまく日本語にならない言葉)の防衛になっている可能性に対して開かれているべきであるという。そしてその深いレベルと言えば、不安定―葛藤的愛着パターンであるという。最初に出てきた不安の階層構造の話を思い出して戴きたい。そしてそれが転移関係にも表れるとする。つまり患者が「この関係も結局は失敗に終わるのではないか」という懸念を持つことになるのだ。


2025年4月1日火曜日

支持療法を支持する 1

支持療法・POSTは最強である

なぜ精神分析でなくて支持療法が最強なのだろうか。本来なら精神分析こそが最強である、と私は思いたい。しかし精神分析はあらゆる心理療法の源流であり、ある意味では旧約聖書的な存在であるために、かえってモーセの十戒により縛られ、力を削がれているからである。精神分析の力は間違いなくそれが主張する「治癒機序」の持つ強いメッセージ性であった。特に米国ではそれが精神分析家のみならず精神医学者をも数十年にもわたって夢中にさせ、その実証性を示すことへと向かわせた。しかしそれが必ずしも実を結ばなかったことから、そこから派生した様々な治療的介入の存在を私たちに気づかせ、それらの発展を促した。そしてそのいきつく先の一つは「多元論的な治療観」(クーパー、マクレオッド)であると理解している。そしてこの多元論的な治療観を反映したものが、支持的療法であり、それゆえに最終的であり最強なのだ。(もちろんメッセージ性を狙って多少なりとも「盛った」言い方をしているのだが。) 人は支持療法を一つのプロトコールを備えたある種の権威とみなすことに抵抗を示すかもしれない。しかし支持療法はある意味では「内容を欠いた」それ自身がコンテイナー的な概念なので、それに対する反論をも将来は取り込む素地を持っていることを忘れてはならない。支持療法は上書き、更新可能なのである。 精神分析の最大の特徴でありまた弱点は、そのモーセの十戒的なメッセージ性であると述べたが、その理論的な先鋭さ(必ずしも「治療的な先鋭さ」ではなく)は治癒機序をヒアアンドナウの転移の解釈と定め、それを精神分析的な治療の一つのプロトタイプとしたことである。それは理論的には鉄壁であり、また確かにそれに合致した治療関係が成立し、大きな変化を遂げる患者が存在するであろう。しかしその治療過程の切っ先の鋭さは、それ以外の技法を排除することにより保たれるような類のものである。そしてその結果として、人間を変えるポテンシャルを有するそれ以外の様々な介入は、「分析的でない」として除外される傾向にある。旧約聖書から入っている治療者たちは十戒に背くことの後ろめたさから「それ以外」の技法を用いることをためらう。 ギャバ―ドはその優れた論文「治癒機序を再考する」(Glenn O. Gabbard and Drew Westen (2003) Rethinking therapeutic action. Int J Psychoanal 84:823–841)の中で、様々な治癒機序をあげつつ、精神分析プロパーでは限られた手段しか用いることが出来ないことのディスアドバンテージを示しているようである。 彼はまず治癒機序としては二つのことを挙げる。それらは洞察を育てること fostering insight と作用機序の媒体としての関係性 relationship as vehicle of therapeutic action であり、これらは精神分析プロパーに関する議論であるとする。そして精神療法ではそれらに加えていくつかの 方略 strategy があるとして次の5つを挙げる。あたかも精神療法の方がこれらの二次的な作戦を自由に使えるという意味ではより広い治療的な介入を行えるような言い方をしているのが興味深い。もちろんギャバ―ドは、最初の二つが精神分析に限り、二次的方略は精神療法、という風にはっきり分かれているわけではないことのと釘を刺している。それらとは以下の通りだ。 1.変化についての明白な、あるいは非明示的な示唆 suggestion .  2.  役に立っていない信念 belief や問題行動や防衛への直面化。 3.患者の意識的な問題解決や決断の仕方へのアプローチ  4. 暴露 5.自己開示を含む介入