ここでいったんおさらいをする。この論文の方向性がまだ見えてこない。改めて執筆依頼文を読むと「精神分析の視座からのパニック・恐怖と不安の理解と対応」とあり、パニック症に関する記載を詳しく、とある。そうか、その方向性で書かなくては。やはりこのような依頼文はしっかり読まなくてはならない。しかも流派ごとの理解と対応、とある。そして認知行動療法と森田療法、「マインドフルネス、催眠、ポリヴェーガル」を書く先生がそれぞれいらっしゃる。
精神分析と不安、パニック
まず総論から始めよう。不安と言えば神経症症状の一つの典型と言えるが、その神経症は精神分析的治療の対象とされる。そしてフロイトはその業績の中で不安について極めて多く論じたことが知られる。それについて簡単にさらってみよう。精神分析においては、不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、「それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。この意味で不安の存在、もしくは発現は葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)しかし現代的な精神分析においてはこれに代わり、より現実的で患者の側に立った議論がなされているようである。これに関して、ギャバ―ドは次のように論じている。(GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.)
精神分析理論において不安は中心的な位置を占めるが、フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。①マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるもの。② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであり、後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis において問題になる。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたのだ。後者は単に患者の性的活動を高めればよいことになる。
その後1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。いわゆる不安信号説で、それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。(p.258)
ギャバ―ド先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、それ自身は意識レベルに表れるために受け入れられるものであるという。それの抑圧がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。ギャバードさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。
超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。
Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.
しかしギャバードさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。この古いモデルをいったん示して、でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎない、と伝えることがギャバ―ドさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。