そこで手始めに岡田論文を読んでみる。彼は2017年の「週一回サイコセラピー序説」の中で「週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について」について書いている。(ちなみにこの本には、私も一章書かせてもらっている。)そして本書(2024年)では「週一回におけるヒアアンドナウの解釈について」という論文を書いている。
私が彼の論文を最初に読むのは、彼が極めて常識的な臨床センスを備えており、また特定の学派の影響を色濃く受けていないために、その理論を理解しやすいと思ったからだ。そしてこのヒアアンドナウに関しては、やはり藤山理論の影響を強く受けたうえで、なぜ here and now が週に1回のセッションに耐えにくいのか、別言するならば、なぜthere and then にとどめるべきなのか、という議論になる。(ただし、では there and then に浸るべし、ということを言っているわけでもない。)彼の、全体の流れに大きくは関しないものの、彼の独自性(というよりは野心?)が垣間見られるところが面白い。
私がむしろ彼の2017年の論文で面白いと思ったのは、「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と言ってゐることだ。そして実際に彼は後者提唱しているようだということだ。そしていう。「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であると言う。それを彼は言いなおす。「それは精神分析的に精神療法を行うことだ。」うーん、悩ましいが、少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。しかしそれにしても・・・・と思う。「ストラッキーの変化を及ぼす解釈」が真に分析的である、という何十年も前の説はこうして生きている(生きさせられている)のだ。