解離を切り捨てるというフロイトの方針は、ブロイラーとの決別という形で生じた。
しかし解離の概念を全面的に拒否すると、精神分析はトラウマそのものを十分に扱う素地を有さない理論体系になってしまう。それが一番問題なのである。
解離についてのブログで最近書いたことだが、Richardsonは以下のように書いている。(Richardson,RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210)
「もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく、日常生活を継続することを可能にしてくれるのだ。」
例えば耐え難い虐待を受ける際に、体外離脱を起こすこともある。これは解離という機制が働いたためだが、PTSDなどで生じる現象にはこの解離が必ず介在しているというのが米国のDSM-5の考え方だ。それはトラウマの生じた時に解離が起きているかどうかは問わないが、フラッシュバック自体が解離現象であるというのがDSM-5における定義の仕方である。
ただし最近はトラウマの概念が広がり、愛着トラウマの概念がよく知られるようになっている。しかしこれはエピソード記憶が成立する年代より前に起きている現象である。つまりこれをトラウマに入れるとしたら、ここには解離が介在しているかは議論できないことになるのだ。
しかし精神分析で解離の議論が重要になるのは、解離性障害が精神療法の対象となることが増えてくること、そしてウィニコットやフェレンチの理論を学ぶ上で解離の議論を避けて通れないからである。