2024年9月20日金曜日

統合論と「解離能」14 

 サンドラ・ポールセン著、新井陽子・岡田太陽監修、黒川由美訳(2012)トラウマと解離症状の治療 ENDRを活用した新しい自我状態療法(東京書籍)を紐解いてみる。ポールセンは統合のことをどう考えているのだろうか?

ポールセンが第1章で断っていることに私は早速かみつく。「交代人格は人間ではなく、一人の人物のパーツです」。ここで彼女は当たり前のことを言っている。「人格はクライエントの分身ではありません。それぞれがクライエントの一部(パーツ)なのです。」(p.21) そしてわかりやすい例として、「私が思い浮かべる母親は私の心の中にだけいて、現実の母親とは違う」などとごく当たり前のことを言い、「これは非常に単純で明白な事のように思われますが、内的影響と外的影響の間の区別があいまいになってしまうことこそ、多くの病的な症状や治療の生きつまりの根本的原因であるのです。」(p.21)

これから読むポールセンの文章では、おそらく統合は目標とされていないだろうが、各人格をパーツと見なすことで、最終的には統合されて初めて一人前という想定は透けて見えていることになる。パーツであるとしたら、それぞれ喧嘩をするな、協調せよ、という方向に議論が進むかもしれない。 しかしパーツが一人前でない以上、どの人格が出ても十分な人間として扱えないことになる。それともたくさんの人格の中で一人一人前になるべき人物を想定するのだろうか?それは基本人格のことだろうか? しかし基本人格は眠っている場合が少なくないのだ。そこで当然浮かぶ疑問は以下のものだ。「もしパーツ同士の協調を考えるとしても、その全体としての存在をどのように扱うのか?」別の言い方をすれば、やはり統合された一段階高次の人格を想定するのだろうか?しかしそれはDIDという概念をある意味では否定することにはならないであろうか?なぜならDIDの定義としては、複数の人格の存在を想定することであり、そこに「主-従」ないしは「全体-部分」を想定はしていないからだ。