2024年9月18日水曜日

統合論と「解離能」12

 杉山先生によると最初は最年少のパーツから処理するという。そして次は暴力的なパーツだ。それは「暴力的なパーツとは、クライエントの守り手であるにも関わらず、その暴力性のゆえに他のパーツから忌避されていることが多いからである(p.64)」という。そして次の文章は決定的である(少なくともこの「統合論と『解離能』」の考察にとっては)。   「全パーツの記憶がつなげられるようになれば、人格の統合は必要ない。皆でわいわいと相談をしながら生きて行けばよく、適材適所で対処することにより、むしろ高い能力を発揮したりする(p.64)。」つまり杉山先生は明らかに「共存派」ということで私もひと安心なのであるが、次のような記述も興味深いし,気になる。「トラウマは蓋をしても噴き出してくる。精神科医が噴き出してくる記憶に取り合わないのは、虐待を受け続けていて、必死に周囲の大人に語っても一顧だにされなかった子供時代の状況の再現になってしまう。これは深い恨みを患者の側に再度引き起こし、成人の患者においては次の世代への虐待の連鎖に繋がっていく。(p.65)」  この文章が気になるのは、杉山先生は2020年には、トラウマを扱うことへの警告を可なりあからさまに発してもいるからだ。原田誠一先生編著の「複雑性PTSDの臨床」に収められている杉山登志郎先生「複雑性PTSDへの治療パッケージ」(p.91~104)では、彼はかなり過激であった。「精神療法の基本は共感と傾聴だが、(中略)トラウマを中核に持つクライエントの場合、この原則に沿った精神療法を行うと悪化が生じる。」(p.91)例えば治療者の受け身性を強調する力動的(分析的)精神療法だけでなく、トラウマに焦点化された認知行動療法(いわゆるTF-CBT)や暴露療法についてもその意義に疑問を呈する。「圧倒的な対人不信のさなかにあるCPTSDのクライエントに、二週間に一度、8回とか16回とかきちんと外来に来てもらうことがいかに困難な事か、トラウマ臨床を経験しているものであれば誰しも了解できるのではないか」というのだ。「なるべく短時間で、話をきちんと聞かないことが逆に治療的である」とも書いてある。杉山先生はトラウマを扱うか否かはかなり微妙な匙加減をなさっているのであろう。