2024年6月12日水曜日

「トラウマ本」男性性とトラウマ 2

 男性の性愛性と嗜癖モデル

 改めて問う。男性は不感症だろうか? すでに述べたとおり、私はそうとまでは言えないと思う。男性にとって性的交渉は一定の快楽を与えてくれる体験であることは確かなことだ。

 しかし男性の性的な欲求は、それが楽しさや心地よさを得ることで充足されるとは必ずしも言えない。むしろそれが今この瞬間にまだ満たされていないことの苦痛が、男性を性行動に駆り立てるという性質を有する。つまり男性の性愛欲求の達成には(身も蓋もない言い方であるが)「排泄」に似た性質を有するのだ。
 このような性質をもう少し学問的に表現するならば、男性の性的満足の機序は、嗜癖モデルに似ているのだ。さらに詳しくは、いわゆる incentive sensitization model (ISM)(インセンティブ感作理論、Berridge & Robinson, 2011)に従ったものとして理解をすることが出来る。このモデルは次のように表される。

 嗜癖行動においては、人はliking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまりそれが満たされることで得られる心地よさは僅かでありながら、現在満たされていないことの苦痛ばかりが増す。これが渇望の正体であり、これは一種の強迫に近くなる。
 男性の性愛性もこの嗜癖に近く、ある種の性的な刺激が与えられると、性的ファンタジーが湧き、このwanting だけが過剰に増大する。しかし通常はそれを即座に満たす方便がないために、それを抑制するために過剰なエネルギーを注がなくてはならないのだ。
  また男性が仮にその性的欲求を満たす相手に恵まれても、その相手と共に心地よさを味わうということからはどうしても逸脱するということも問題である。男性は絶頂を迎える瞬間は別の人を想像することさえする。性的な刺激を加速度的に高めるためには、目の前の相手以外の誰か、場合によってはポルノグラフィーで見た女性を空想することもありうる。こうなると相手の個別性や人間性はどうでもいいということになりかねない。これはある意味では相手(多くの場合女性)をモノ扱いすること objectification に繋がるのだ。

 ちなみにこの理論についてはさらに詳しくはリーバーマン(2020)の著書をお読みいただきたい。


本章のまとめ

 以上の本章の議論をまとめよう。男性の性愛性の加害性の一部は、それがパラフィリックな性質を本来的に有する可能性に由来する。男性が他者を害することでしか性的な満足を覚えることが出来ない場合、その男性は理不尽にも「生まれながらに断罪されるべき運命」を背負うことになる。これを私は男性性の持つ悲劇性として捉えた。

 一般的な男性の性的満足の機序は、嗜癖モデル(ISM)に従った理解をすることが出来る。すなわち性的な刺激を受けると抑えが効かないような衝動が生まれる。男性が性的満足を追求する時、目の前の対象と心地よさを追求するということからは逸脱する傾向にある。これは女性をモノ扱いすることに繋がり、男性の性愛性において部分対象関係が優勢になるということを意味する。このような男性の性愛性の性質が、それが「劣情」と呼ばれる根拠であろう。

 もちろんこのような性質について説明することは、性加害を行う男性を免責することにはならない。しかし男性の性犯罪者に対しては、それが嗜癖行動の結末という点を考慮した場合には、刑罰よりは治療に重点を移すべきであろうという議論は成り立つ。また男性による性被害を予防するために、男性の性愛性の性質についての更なる学問的な理解は今後も重要となるである。