4.精神分析との対比での精神分析的精神療法の在り方
それに関して我が国では、週に4回以上の精神分析と週に一度のPATの設定では、そこで提供される治療の質が異なるという議論が2010年代からなされている。藤山(2015)は精神分析学会の会長講演で「週一回の精神分析的セラピー再考」としてその考えを示した。また2017年には北山修、高野晶編集による「週一回サイコセラピー序説」が刊行されている。
藤山はかねてから週5回の精神分析と週一度のPATとの異質性について説くことが多かった。この論文ではそれをより詳細に論じた形になっている。この藤山の関心は日本の精神分析が過去に体験した苦い体験、すなわち週一回の対面法を長い間「精神分析」と同一視して教育、実践を行っていたという問題に端を発している。いわゆる「アムステルダム・ショック」に関わる問題である。そしてそれを経て自らが週4回の分析治療を受け、また実践した結果から以下のように論じる。まず週一回のPATそれ自身は臨床的井有用である。しかし週一回のPATでは「精神分析らしく」進展しにくい。なぜなら精神分析的な理論や概念は、自らも教育分析を受けた治療者との間での週四回の臨床の蓄積をもとにし、それを前提としたものであるからだ。そして精神分析とPATがいかに異なるかについて詳しく論じている。もちろんPATが精神分析と類似しているか、異なるか、というのは相対的な議論でしかない。ただしそのうえで藤山はあえて異質性を強調した点が特徴と言えるであろう。彼が言う「平行移動仮説」とは、精神分析理論や治療技法が、そのままPATにも当てはまるかのごとく考える傾向を批判的に表す言葉である。
藤山直樹 (2015) 週一回の精神分析的セラピー再考.
精神分析研究. 59(3):261-268.
北山修, 高野晶編 (2017) 週一回サイコセラピー序説-精神分析からの贈り物. 創元社.
北山修・高野晶監修の「週一回サイコセラピー序説」は2016年の日本語臨床研究会においてテーマとなった「週一回サイコセラピー」のシンポジストの原稿をもとにして編まれた本である。その中で北山は藤山の講演内容をも踏まえて以下のように論じる。日本では週一回の実践において、ことさら精神分析的であることを目指してきた。そこでは週一回で見られるはずの支持的な要素はあまり強調されてこなかった。そして「日本のPATは身に合わないことを目指しすぎていたのではないか、それらしさを発揮する方法を目指すべきではないか」と提案する。
(p17.北山修「序章 週一回精神分析的精神療法の歴史―体験と展望」)
藤山:精神分析と表出的精神療法は、特にその頻度が大きく異なることなどにより異質である。そして表出的精神療法はいくら探索的であったとしても「精神分析的らしさ」を維持することは難しい。
北山:週一回のPATには支持的な要素も含まれる傾向にあり、精神分析とは異質であるが、それ独自の良さはあるのであり、それを追求するべきであろう。
この両者に共通している見方は、精神分析は極めて探索的なあり方であるという点である。相違点としては、藤山は精神分析に「精神分析的」か否かという点について、PAPに対するある種の優位性を示唆しているが、北山はPAPに精神分析とは異なる独自性を求め、あるいは見出しているということである。
ただこの両者があまり触れていないのは、精神分析そのものが多様化してきており、必ずしも週4回の営みが、依然考えられていたより「精神分析的」でないという可能性である。
ちなみに筆者(岡野)は北山・高野編の論文集の一章において自分なりの見解を示している。
日本の精神分析的精神療法:精神療法の強度のスペクトラム pp.91~108)
私がこの章で主張したことは、は藤山、北山の共通理解、すなわちPAとPAPは本質的に異なるという考え方とは異なる。その要旨をここに示すならば、精神分析と精神療法は本質的に異なるものではない。それはある種のグラデーションを持つスペクトラム上のあり方であり、その一端に週4回以上の精神分析があり、もう一端にそれこそひと月に一回やそれ以下のPATがある。そしてそこにあるのは「分析的なプロセス」の生じやすさという点からのある種の「強度」の差である。週4回の精神分析であれば、より高い頻度で生じやすく、週一回のPAPであればその意味での「強度」は低いことになる。しかしそれは精神分析とPAPに質的な差があるからではない。だから「分析的なプロセス」は場合によっては週一回でも起きる場合もあれば、週4回でも永遠に起きないこともある。ただしその上でいえば、週4回の治療はそれが起きる機会を最大限に提供することになる。
この理論となるのは精神分析をある種の出会いと相互変化のプロセスと考える立場である。ある種の出会いやターニングポイント(村岡)は多分に偶発的に生じることが多く、時には非分析的な設定における出会いにおいてさえ起きうるということを前提としている。