2022年7月12日火曜日

不安の精神病理学 再考 3

  ところで不安と言えば、森田療法だ。彼こそが、脳科学的な知識がほとんど得られない状態で、彼なりに不安の理論を打ち立てた人なのだ。「不安又は恐怖関連症状に対する森田療法」(中村敬先生)を読んでみよう。「森田は神経質の多様な症状の背後に比較的共通の性格傾向が認められることに着目し、神経質性格と呼んだ。神経質性格とは、内向的、自己内省的、小心、過敏、心配性、完全主義、理想主義、負けず嫌いなどを特徴とする性格素質をさす。この様な神経質性格を基盤にして『捉われの機制』と呼ばれる特有の心理的メカニズムによって不安や恐怖症状が発展すると考えられる。」

いや、改めて森田先生、すごいなあ。本当に自分をよく観察して、まさに自分のことを書いているのだ。ただしこれは不安という現象だけでなく不安を常に持つような性格全体を「神経質性格」といういわば構造として理解するという試みだ。

不安とは何か。「将棋の渡辺くん」は私の愛読書(ただし漫画)だが、彼は行ったことのない場所で仕事がある時は、前日に下見に行くという(もちろんそのような余裕がある場合だが)。それほど万が一たどり着けないのが不安なのだ。行きつけないならタクシーを使ったり、主催者に電話をしたりなどできるだろうに。しかし彼は藤井聡太君との将棋のタイトル戦などで三連敗してもそれほど意に介しているようには見えない。「このまま永遠に負け続けて恥をかいたらどうなるのか?」などは考えないようである。要するに迷子になるという状況は彼の心及び身体を不安な状況に陥れる何かの事情があるのか。ここで禅問答のようになってくる。人は身体が不安状態になるからそのことが不安になるのか。その逆か。
 野生の環境に置かれたことのない子供のサルは蛇を見ても恐れないという。ところが蛇を見たら大騒ぎをする野生の猿の映像を見せると、人の手で育ったサルたちも蛇を恐れるようになるという。おそらくそこで起きているのは、野生の猿が蛇を見た時に陥る闘争逃避反応をそのまま写し取っているからだ。ということはやはり体の反応が最初なのだろうか。
 体の具合と言えば、例えば鬱に伴う不安などはまさにそうではないか。あれはもう生物学的と言ってもいい、わけのわからない不安。わけもなく救急を受診したくなるのだ。