2021年9月3日金曜日

それでいいのか、アメリカ人 4

こんな感じで書いていても、どうもまともな本になる気がしない。だらだらエッセイを書いているだけだ。このテーマでのオファーをしてくれた出版社の方には申し訳ないが・・・・・。毎日ネタを頭を絞って出している感じだ。

アメリカの患者さんは自分の診断名を知っている

  私のアメリカ滞在は17年間に及んだが、そのうち何がアメリカに特有で、何が日本にも共通していたのかが見えにくくなっていったのを覚えている。最初の頃は驚いていたことはそのうち当たり前になっていく。しかも私が渡米前に日本で体験した精神科医としての臨床は5年間だけだ。それは臨床家としてはお世辞にも長いとは言えない。「日本ではこうやっていたなあ…」という参照枠がどちらかと言うと乏しいのである。

 それでも沢山のことが記憶に残っている。前章ではアメリカの患者さんはお薬の名前をよく知っていると言ったが、それはもっぱら自分が飲んでいる薬の話であった。彼らは医師から出される薬が何のために、あるいはどのような診断のもとに処方されているかに注意を払っているからである。そしてそれは必然的に自分が何という病気の治療を受けているかをより自覚しているという事にもつながる。
 私が特に印象に残ったのは、アメリカの患者さんの中には、自分には○○の診断が下っているという事を積極的に口にすることが多いという事だった。特に「私はパラノイド・スキゾフレニア paranoid schizophrenia です」と明言する方が結構いらしたという事である。パラノイド・スキゾフレニアとは日本語では「妄想性統合失調症」という事になるが、私のように1980年代に精神科医になったものにとっては、「妄想型精神分裂病」という言い方がなじみがある。この「ブンレツビョウ」という響きが差別的だというので、この病名は2000年代になってから統合失調症と改名されたという歴史があるのだ。それほどまでにこの言葉には重さや深刻さがある。精神を非常に深くむしばむ病気、社会復帰が非常に難しい病気という印象がこの診断名には付きまとう。だから日本の精神科医は、患者さんやその家族にこの病名を直接告げることはあまりない。これは一昔前に日本で癌を患者さんに告知することが一般的でなかったことと関連があるかもしれない。
 思い出す限り、私は日本で統合失調症の患者さんがその病名を口にするというケースに出会ったことはほとんどないのだ。そして医師もそのことを患者さんには問わないのがふつうである。そしてその傾向は私が2004年に帰国してからも変わらない。だから1990年当時、アメリカの精神科で出会う患者さんに「私はパラノイド・スキゾフレニアです」を告げられることには新鮮な驚きがあったのである。
 私が特にそのような患者さんに出会ったのは、州立病院 state hospital や退役軍人病院 Veterans’Administration Hospital (いわゆるVAホスピタル)と呼ばれるところである。私が滞在し始めた1980年代のアメリカには、大きな公立の精神病院が全国で数百存在していた。そしてそこには急性期や慢性期の患者さんたちが多く入院していたのである。当時の後に1990年代に入って州立病院は次々と統廃合されていったが、そしてそこには一部の患者さんが長期にわたっての入院を余儀なくされていた。そしてその多くがこのパラノイド・スキゾフレニアの診断を受け、社会復帰が出来ずに、退院先も見つからずに入院生活を継続していたのである。そしてその様な事情は日本の精神科でも変わりない。私は州立病院の思春期病棟に4年間勤めていたが、当直などでほかの慢性期病棟の患者さんたちと多く出会う機会があったのである。
 さてではどうしてアメリカの患者さんは、このスキゾフレニアという、ある意味では非常に精神的な意味で致命的な自分の病を口にすることが出来るのであろうか? そこにいくつかの仮説はあるだろうが、一つには彼らはこれをラベリングとして、あまり深刻にならずに受け取っているという可能性があることだ。英語にも、そしてフランス語やドイツ語にも一般に言えることだろうが、あくまでもニュートラルな単語というものがあり、それはあまり変わらない。スキゾフレニアも病名であり、それ自身がスティグマであったり差別的な雰囲気を醸さないという点はあるだろう。アメリカの患者さんの話を聞いていると、「僕はスキゾフレニアという病気になった。だからハルドールという薬を飲んで治療をしている。だけどそれは僕が僕であることを変えるわけではない。それで何か?」という雰囲気が伝わってくる。そしてそこには二つのニュアンスがある。一つは、「自分はこのような診断名の病気になってしまった。それはそれとして受け止めるつもりである。」「ただしこの病気は治療により良くなるだろうし、そうしたら元の自分に戻ることが出来る。」
 お分かりだろうか。ここには諦念と共に一種の気楽さ、楽観性も感じられるのである。さらには「もしこの病気で一生を終えることがあっても、天国では違う世界が待っている。」という声さえも聞こえてきそうだ。そしてこのことはアメリカ人に圧倒的にキリスト教信者が多く、その85%が天国を信じているという事と無関係ではなさそうなのだ。