2021年8月1日日曜日

嫌悪の精神病理 推敲 9

 喪失体験のうち特に親しくした人やペットを亡くした際に私たちの心に起きる反応は悲嘆反応と呼ばれるが、それらの中には時間を経てもなおも心をさいなみ続けるものがある。それを病的悲嘆、ないしは複雑性悲嘆と呼ぶが、米国の診断基準(DSM-5)では深刻な悲嘆反応が一年以上みられる場合とされ、その有病率は25%と言われる。その際人は対象が亡くなったという事実をどうしても受け入れられず、死者を恨んだり、みずからが生きていく意欲を失ったりする。時には故人の幻覚を体験したりもする。つまり喪の作業が終わらずに半ば永続的に個人を苦しめることになるのだ。

嫌悪の病理とトラウマ記憶

記憶に関連した嫌悪の病理について、最後に取り上げたいのがトラウマ記憶の問題である。私たちはさまざまな生活場面でかなり直接的で生理的な嫌悪感を生むような刺激に遭遇することがある。それらの多くは過去の特定の体験に結びつき、次第に薄れていく傾向にあるが、一部はそうではない。それどころか繰り返しよみがえり、私たちを苦しめるのである。それがいわゆるトラウマ記憶、ないしは恐怖記憶と呼ばれるものである。
 私たちがしばしば体験するのは、ある事柄や人、生物に対して私たちが時に示す著しい嫌悪感情である。特定の対象や事柄に対して抱く嫌悪感はいったいどのように生じ、いかなる意味を持つのだろうか?一つ明らかな事は、嫌悪感は記憶や学習の産物であるということだ。それはある種の恐怖ないし強烈な不快体験を持つことで成立する。チャールズ・ダーウィンは、天敵のいない環境で繁栄した野生動物は、人を全く恐れることがないためにあっという間に絶滅してしまうと報告している。生命体は恐怖や苦痛を体験することで、特定の事柄は脳に嫌悪刺激として刻印され、それがその後の確実な回避行動を生むのだ。そして人間においてはその脳のレベルでの主役はすでに登場した扁桃体である。扁桃体の外側基底核にある特定の細胞が、その嫌悪刺激のことを記憶し、それ以後に関連した情報を感知すると、すぐさま扁桃体中心核にそれを送り、嫌悪感情を生み出すとともに即座にそれを回避する行動を起こさせる。そしてその反応の神経学的なルートはいったん成立すると容易に消去されることはない。それにより生命体は天敵や有害物質から逃れ、捕食されたり健康を害したりする可能性を回避して生き延びることが出来る。
 このように扁桃体を介した嫌悪刺激への反応は、本来私たちの生命維持のために必要であり、基本的には合目的的である。しかしその嫌悪刺激が繰り返し過去の体験を思い起こさせ、その人の社会生活を損なうほどの苦しみを与えるとしたらどうだろう?
 精神医学や心理学の世界でこの半世紀ほど大きな関心を集めているテーマがある。それがトラウマ(心の傷)による精神障害であり、そこで問題となる忘れ難い記憶が、トラウマ記憶ないし恐怖記憶と呼ばれている。このトラウマ記憶はPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害などの数多くの精神病理と関係している。その中でもフラッシュバックと呼ばれる現象においては、もとになった恐怖体験があたかも今起きているかのように生々しく繰り返し蘇ってくるのである。
 フラッシュバックを起こすトラウマ記憶には通常の出来事に関する記憶とは大きく異なる性質がある。それはその主成分が感覚的、情緒的な反応であり、先に説明した潜在記憶の部分に相当する。そして顕在記憶の部分がしばしばあいまいであったり、忘却ないし解離により意識に上らなくなってしまうということである。トラウマを体験した際、それが恐怖や不安等の強い情動を伴い、激しく扁桃核が興奮するが、それによりエピソード記憶の成立に必要な海馬の活動を抑制することが知られている。すると通常のエピソード部分を欠いた感覚や情緒的な記憶になってしまうのである。 
 ところでトラウマ記憶はなぜ忘れられないのだろうか? その一つの可能性は、それが時間の経過とともに忘却どころか逆に「強化」されてしまうからである。その仕組みの理解のためには記憶が脳に定着するプロセスを知っておく必要がある。通常の記憶は最初は海馬を通して形成され、その後徐々に大脳皮質へと移動していく。それ以降はその記憶は海馬を介することなく思い出されるのだ。そして記憶が海馬の支配下にある最初の12年間は、それが想起されるたちに「不安定化」されることが分かっている。例えるならば、記憶はいったん冷凍された後思い出されることで解凍され、形を変えられたのちに再び冷凍されるのである。そしてその過程で記憶のあるものは消去されていくことが分かっている。そのことはその際に扁桃体において蛋白質の合成を阻害する物質やプロプラノロールという薬物を注入されたり、また海馬の働きを活性化することに促進されることが知られているのだ。ところが記憶のあるものは再び冷凍される際により強化される形で「再固定化」されてしまうのである。それがトラウマ記憶であり、当初のインパクトがあまりに強かったために何度も想起されることで「再固定化」を重ねてより強固なものになってしまうのである。

4.まとめ

嫌悪の精神病理についてみてきたが、本稿ではそこに関連する2つの脳科学的なプロセスを紹介したことになる。一つは快楽体験があまりに強すぎる刺激の場合には報酬系を乗っ取り、それを暴走させ、その結果として快は最悪の苦痛に変える。もう一つはトラウマ体験において、その衝撃があまりに強いために、扁桃核が合目的性を失い、それを決して失われない記憶に変化させてしまうという現象が生じる。このことからわかるのは、私たちの心は、体験を合理的に扱うことが出来る、いわば健常な体験の隙間、閾値があり、それがどちらの方向に振り切れても私たちに深刻な病理をもたらすのである。