2021年6月6日日曜日

嫌悪 6

 昨日の続き。でも身体的な苦痛は記憶とは関係ないのだろうか? おそらくその一つの典型例は嗜癖なのであろう。例えば薬物依存の場合、その耐性のメカニズムは確実に記憶に類似する。使用するにしたがって耐性が付いてくるという現象は、離脱がそれまで使用することによって得られた快の積分値に応じて強くなっていく。その薬物を使用したという身体的な記憶がつまり薬物を使用したという一種の記憶がそれを離脱する際の苦痛となっているのだ。この部分は薬物嗜癖と行動嗜癖が非常に似たような振る舞いをするということによりうまく説明できるのではないか。薬物の使用をやめることはまさに喪の作業ということになる。
ところでネットである記事を読んだ。以下はそのコピペである。作者の大澤真幸先生、有難う。とてもためになりました。
 「フロイトは、臨床経験を通じて「無意識」という心の領域を発見し、それを探究する学問「精神分析」を一人で創造した。その苦闘の中で彼は、心の仕組みに関する独創的な仮説をいくつも作っている。「快感原則の彼岸」で提起された概念は、中でもとりわけ人々を驚かせた。

 人間は一般に快を求め、不快を避ける。と、フロイトは思っていたのだが、そうではないことを発見し驚愕(きょうがく)する。不快きわまりないとわかっていることへと敢(あ)えて向かう執拗(しつよう)な傾向が、人間にはある。これをフロイトは「死の欲動」と名づけた。
 死の欲動とは何か。フロイトは道無き道を暗中模索しながら歩んでいる。こういう本は、概念の発明を促した動機を理解し、創造的に読む必要がある。
 フロイトに死の欲動を発見させたきっかけのひとつは、第一次大戦後、反復強迫に苦しむ患者にたくさん出会ったことである。患者は夢でみたり、フラッシュバックしたりして、戦時の苦難に満ちた体験に繰り返したち帰る。やめたくてもやめられない。視野を広げると、戦争に関係がないケースでも同じような症状があると気づいた。
 だから私は「死の欲動」を次のように解釈している。人間は、自分の人生を、あるいは社会を、物語や歴史の形式で意味づけている。ところが物語や歴史の枠に収められない出来事がある。戦場で受けた衝撃などがそれだ。どうして、何のために私はあれほど恐ろしいことを経験しなくてはならなかったのか。納得のいく説明は不可能だ。
 物語化・歴史化に抵抗する、喉(のど)に刺さった魚骨のような出来事。そんな出来事を想起することは苦しい。人生に意味を与え、安心感をもたらしてくれる枠組みが崩壊するのを感じるからだ。しかし人間はその崩壊の場にたち戻らずにはいられない。なぜか。私の理解ではフロイトの答えはこうなるはず。意味づけ不可能な出来事は、人生や社会を物語化・歴史化したことの代償として、それらに必ず伴っているからだ、と。(朝日新聞201869日掲載 大澤真幸(オオサワマサチ)社会学者)

 確かにフロイトの死の本能は不可解である。私は彼の理論をあまり信じていないのだが、それは次のような理由による。フロイトが「快楽原則の彼岸」という論文を1920年に書いたのだが、それは彼が第1次大戦を目にして、人がなぜ苦しい記憶をそれでも繰り返し思い出すのであろうということを考えた。フロイトはこれが快感原則に従わないと考えた。快感原則とは人が快を求めることである。ところがフラッシュバックに苦しむ人は明らかに自ら苦しむことを行っているではないか。フロイトはこの事実を前にして死の本能という考えを打ち出したわけであるが、当時の、あるいはのちの分析家たちはこれに賛成しなかった。その代わりにフロイトの次の説明の方を受け入れたのだ。「人は反復強迫を有する」つまり苦しみを伴うことを繰り返す性質を有する。一つ確かに言えるのは、人は繰り返そうと意図しているわけではないということである。それを自発的に求めているのではなく、それは繰り返されてしまうのである。こちらはどちらかというと「不快原則」に近いのだ。苦しみから逃れるようにしてあることを反復する。薬物依存のように。(不快原則は不快を回避する、という原則である。不快を求めるという原則ではない。