2021年2月4日木曜日

続・死生論 26

 アマゾンで大枚をはたいて買った(と言っても4000円弱)西谷啓治先生のReligion and Nothingness があっという間に届いた。早速裁断してスキャンして、PDFにしてアイパッドに取り込む。PDF化する際に同時に「OCR変換」をしているので、コピペや検索が自在にできる。(でも高いお金を出して買ったので、スキャンをした後にまた「綴じだクン」を使って製本してしまった。)早速emptiness で検索するとたくさん出てくる。早速拾い読みをしてみようか。

ところでこのテーマについて考えているうちに一つの考えが固まってきている。それは内在化や同一化のプロセスが儚さや喪に深く関係しているということである。同一化identificationについては精神分析でしょっちゅう出てくる概念だ。しかしその意味は明確ではない。Identify は自動詞的にも他動詞的にも使われる。すると~に同一化する、という意味だけでなく~を同定する、という意味にもなる。あるものをidentify する、とは「コイツは自分が知っているアイツと同じものだ!」という体験にもなる。「アレだ!」というわけだ。

喪のプロセスにこの同一化という現象が決め手となるという考えはフロイトが示唆したことであるが、あまりこれまで注意が及ばなかった。穏当な例にするために、例えばペットのワンちゃんを考える。

ペットのワンちゃんが元気な時は、飼い主はこう言うかもしれない。「私とワンちゃんは一心同体です。」「ワンちゃんが辛いと私もつらくなります。」「ワンちゃんも私が辛い時はわかってくれます。」これが同一化の例として最もすんなり受け入れられるのではないだろうか。もちろん分析家はもっと複雑な例を出すかもしれないが。そしてこの同一化は基本的には快楽的な体験と言える。

やがてワンちゃんは年を取って亡くなり、飼い主はつらい別れを体験する。でもワンちゃんと撮った写真を眺めるなどして少しずつ喪のプロセスが進んでいく。その時飼い主に「ワンちゃんは今どうしていますか?」と問うと、「ワンちゃんはもうこの世にはいませんが、私の心の中に生き続けています」と答えるだろう。これはワンちゃんは飼い主に内在化された、と言えるであろう。

このプロセスをどのように考えるといいのだろうか。ワンちゃんが生きてそこにいる限り、飼い主は抱っこして撫でで、ワンちゃんと一体となった体験(同一化)を続けようとするだろう。ところがもうワンちゃんはそこにいない。フロイトだったらリビドーと呼ぶであろうある種のエネルギーの向かう先に対象はもういないのだ。飼い主は一生懸命ワンちゃんを思い出すだろう。行き先を失ったエネルギーは心に残っているワンちゃんのイメージに向かわざるを得ない。しかしそのプロセスが辛いのだ。そしてそれは当分続くのである。何か具体例を思い浮かべると胸が痛くなってくるな。この胸の痛さについて、フロイトは「儚さ」のエッセイの中で「分からない、わからない」とつぶやいているのである。

しかしフロイトはある結論にたどり着いた。それはそのエネルギーは対象を離れて自分に返ってきて、その分をほかの対象を愛することに使うことが出来るのだということである。これは極めて理屈にかなった考えだという気がする。