2021年1月16日土曜日

続・死生論 7

 考えてみれば、喪の作業とは、外的な対象を自己の内部に取り込む、内在化させるという作業である。自分自身についての喪の作業を行うこととは、自己を内在化する、ということになるが、それは結局は自己を高め、自己を乗り越えることであり、これは例の causa sui の裏側の作業ということになるのではないか。それはある意味では自分の存在を芸術と同じような意味で高めるという作業だろうか。坂本龍馬は、西郷隆盛は自分の人生でそれを試みていたのだろうか。あるいは三島由紀夫の割腹自殺による試みもそのたぐいだったのだろうか?(成功したかどうかは別として)。あるいは谷崎の「陰影礼賛」における陰影化は、対象を心の中に取り入れることを促進する意味があるのか。線香花火はそれがすぐ消えてしまうからこそ、私たちがそれを自分の心に焼き付ける作業を促進するのか。すると喪に逆らうとは、それをせずに、対象がいつまでもそこにあるものとして外側に置いておこうという試みであろうか。その意味で「儚いこと」は取入れを促進することで、その対象の価値を結果的に高めているのではないのだろうか。「対象の影が自我に落ちる」(フロイト)とはこのプロセスを言っていたのか。感謝の心性もここに絡むのか。感謝とは、その対象を心の中で消すことで得られる心性ではないだろうか。これと無時間性との関連はいかなるものか。

結局③の構造論的視点はややこしいので飛ばすことにして、先を読む。ここではエリクソンやコフートに見られる視点に対するホフマンの批判が書かれている。それは要約するならば、死の恐怖の克服ということが、人間の精神の達成の一つのレベルと見なしているということだ。98ページには次のように書かれている。「エリクソンは死への恐れを実質的に発達上の失敗の兆候と見なすことによって、自己肯定と同時に生じる未来への恐れや悲嘆の先取りや抑うつさえ含む適応により表されるような、情緒的な成熟を否定したのだ。」

そしてホフマンさんは彼の死生論の最も基本であり、おそらく彼の弁証法的構築主義との関連で正当と思われる考え方を示す。(p.99)

「互いに異なる方向性を持ち、矛盾さえしている態度の間の緊張を受け入れること」。

その点ではコフートも同じ問題を持っている。コフートにとっては、不安の最も深い根源は、崩壊不安ということだが、これは中核自己の破壊、いわば強烈な恥辱体験ということになるだろう。分かりやすく言えば(あるいは通俗的な理解と言えるかもしれないが)、人は恥をかかされることは、死よりも恐ろしいということになろうか。ホフマンはこれを否定しているわけだが、私自身にはわからない。というか、死への恐怖が人間の実存的なあり方の根本であるという前提が、まだ納得いっていないという所がある。