さてここで私は脳の臨界状態、ということについて論じたいのだが、この問題がどのように重要かについてまず説明したい。前章では、脳においてダーウィン的な競争が起きているときに、そこでは臨界状況が成立しているはずだ、と述べた。しかしその説明はおそらく本章でデフォルトモードの話を導入した後のほうがいいと判断したので、控えたのだった。ただし私はここで「デフォルトモードは脳の臨界状況だ」、という主張をしたいというわけではない。それには近い話になるが、事情はさらに複雑なのである。
そもそも臨界状況とは何か。本書では水が冷却され、氷結する際に生じる現象を臨界点であると表現した(○○ページ)。あることが起きそうで起きない時、あるいは起きかかっている時。たとえば火が消えそうで消えない時。建物が倒壊寸前の時。同様の状況はいくらでも想像がつくだろう。そしてそのような時にはほんの小さな刺激で一気に事態が進んでしまうことがある。
本書でそのような例として示したのが地震であり、砂山の例であった。これらはべき乗則が成り立つ現象である。すなわちいつ何が起きるかわからない状態というのを詳しく見てみると、小さい出来事は実際に頻繁に起きていて、しかし大きな出来事ほど急速に少なくなっていくという事情がある。そのような法則がべき乗則なのであった。
同様のことを心に関して考えた場合、臨界状態に似た状況を想定することはそれほど難しくないだろう。あることを思い出しそうで思い出せない状態。AかBかで迷い、もう少しで決断が下されようとしている時。ある新しいアイデアが出かかっている時。そのような際私たちの心はいつも臨界状態にあると考えていいのではないか。
しかし臨界状況にない心の在り方もたくさんある。私たちがほとんど何も考えることなくあることを行っている時、例えば頭について離れないメロディーを思わず口ずさんでいる時。決まったルーチンに従って作業をしている時。退屈で単調な仕事をしている時。要するにかなり自動的に、あるいは無意識的に何かを行っている時。その時の心は臨界とは程遠い状態といえる。こうして私は心の動きを、臨界的なものと非臨界的なものとに分けて列挙したわけだが、一体その根拠は何で、両者にはどのような違いがあるのだろうか。