2020年2月3日月曜日

いい加減さと揺らぎ 再考 2

以下の部分は、前回部分とほとんど変わっていない。
一つ言えるのは、この北山氏のいう「いい加減さ」は、どちらにも決めかねて、いわばどっちつかずで揺らいでいるという消極的なあり方ではない、ということだ。むしろ積極的に、両者の間を漂っている状態と言えるだろう。その時のタイミングや、その時に置かれた文脈によってはABのどちらかの選択をする用意を持ちつつ、ユラユラ揺らいでいる状態なのだ。私がそう考える根拠を示そう。
そもそも私たち人間の生きた体験とは、各瞬間に小さな二者択一を常に迫られているようなものだ。将来を決定するような重大な決断ではないとしても、小さな選択は始終行っている。生きるというのはそういうことなのだ。毎日朝電車に乗り通勤するときのことを考えよう。目の前に三つある改札口のどれかを選んで通っていかなければならない。ホームに下りる階段では、急いで駆け下りて発車間際の電車に飛び乗るか、それともあきらめるかの選択がある。いざ電車に乗っても、今度は目の前に微妙な感じで空いている席に座るかどうかの選択がある。その際空いた席から同じくらいの距離に立っている別の乗客の動きを判断し、その人に譲るのか、それとも自分が積極的に取りにいくかを決めなくてはならない。そんなことを常にやり続けてようやく職場にたどり着くというわけである。それらの選択は実に些末なものに思えるが、結局は一つ一つを選択して仕事場に至るのだ。
しかしこのような小さな選択をくり返している私たちはさほどそれを苦痛に感じたり、頭を悩ませたりしないはずだ。というのも私たちは生命体であり、生命体は常にABかを選択することで生命を維持し、種を保存してきたからだ。そしてそれぞれの選択肢を前にして深く悩んだり、考えすぎたりせず、テキトーに気軽に選択することこそが大事なのである。つまり次のことが言えるのではないか。「いい加減さとは、深く悩まずに選択できることだ。」
実際私たちが生きる中で、選択の機会は無限に存在すると言っていい。そしてその多くはいま選択しなくてもいいものである。どうしても選択を回避せざるを得ない時にはABかを決めることが出来ることが出来ることが必要なのだ。どうやらいい加減さとはそういう状態を意味することなのだ。そしてその意味では、これは決してイイカゲンで生半可な話ではないという事だ。

1.そもそも排他的に決断することは適応のために必要だった

両極の間をさまようという揺らぎ、そこでのいい加減さについて論じる前提として、私たちはそれとは全く逆の状態についてまず考える必要があることになる。それは曖昧にしない、白か黒かをはっきりと決めるという事である。精神分析学ではこれを「スプリッティング」と呼んでいる。メラニー・クラインの言うパラノイド・スキゾイド(PS)ポジションとはもっぱらそのように働く心の状態を表したものである。そしていい加減さの意義について考える前提となるのが、私たちが物事をスプリットしやすいという性質であろう。そして私は実はスプリッティング、すなわち白か黒かに決めることは、私たち、あるいは生命体が生きていくために欠かせない能力なのだ。
私たちが白黒を付ける傾向にあるのは、そもそもそうしないと生き延びられなかったからなのである。スプリットすることといい加減であることのどちらが生命現象にとって重要かと言えば、答えは間違えなく、スプリッティングの方である。そして実は適切な形でスプリッティングする能力は、いい加減さにより保障されているという不思議な関係があるのだ。ただしここは少し先走りし過ぎてしまった。そこまで少しゆっくり論じてみよう。