2019年10月8日火曜日

共に揺らぐこと 4


人々が揺らぎを共にすることにこれほどの快楽を覚えるのはなぜだろうか。おそらくこれに関する定説はないだろうが、(というより共揺れによる快についてはそれに関する説を聞いたことがない、ということは私が勝手に言い出しているに過ぎないことになるわけだが) 私は次のようなモデルを考える。
鳥の集団や魚の集団があたかも一つの生命体のような歩調を合わせた動きを見せることはよく知られる。サメに追いかけられた

イワシの大群などは、遠くから見ればそれ自体が一つの大きな黒い生物のように見えるだろう。イワシが脳内のプログラムに従って集団の動き全体を常にモニターしているかといえば、実はそうではなく、かなり単純なメカニズムに従っているらしい。彼らは直近の周囲の個体の動きを模倣しているのである。それは一種の反射として生じ、だからこそその動きは時差がほとんど生じない一糸乱れず統一されたものとなる。そしてそれが彼らを天敵から守ることにつながる。群れから外れることは、必ずといっていいほど天敵の餌食になることを意味する。ということは生き延びてきた個体は必然的に周囲と合わせる能力にたけたもの、と言う事になる。だとすれば周囲の個体とともに動き、同時に共に天敵を恐れ、ともに天敵から逃げおおせたことに安堵する。
実際に集団生活をする動物が自らの身を守るための原則は、全体が一致した行動をとりながら相手に向かい、あるいは相手から逃げる必要がある。そしてそれはその集団内での生存競争とは異なる原則に基づくものである。この「ともに喜ぶ」ことへの志向性は前者の基本になっていると私は考えるが、これは愛他性とは少し異なる。愛他性はときには自己犠牲を伴い、その為に自己保存本能と真っ向から対立しかねない。アンパンマンが自分の頭の一部をちぎって人に与える時(子供に愛他性を例示するときに絶好の例だ!)、アンパンマンはその為に顔の一部が欠けてしまい、体力も衰えるだろう。(詳しい設定は知らないが、おそらく次回の放送分までには再生するはずだ)。そして「ともに喜ぶ」には自己保存が込みになっている場合もあるし、両者が矛盾を含むこともある。オリンピックのある競技で金メダルを取った選手と銀メダルを取った選手が「ともに喜ぶ」かどうかを考えればいい。自分が金を取ることは、ほかの人が金を取る機会を奪うことである。二人のメダリストがともに喜ぶとしても、それは複雑な気持ち、あるいは葛藤を伴いかねないのだ。だから「共に喜ぶ」は集団が共通の敵を倒したときなどに最も効率よく体験されるであろうし、そのためには共通の敵を作り出すことでそれを達成する可能性すらあるのである。