解離ケースの治療の普及に向けて
解離の治療の将来に向けて論じる。確かに解離の臨床はいまだに「未開拓」の域を出ていないのではないかと感じることがある。私はこれを決して誇張して言っているつもりはない。それは解離性障害を有する患者が精神科の外来を訪れたり入院治療を施されるという非常に現実的な状況で露呈していることだ。それらの現状を見る限り、解離はいまだに多くの誤解を受け、おそらくこれからも当分受け続けるであろう。ただし私は「そのような誤解をなくしていかなくてはならない」という論調で書くつもりはない。むしろ「解離が誤解を受ける宿命は何に由来するのか?」について改めて考えてみたいのだ。まずある臨床場面を描いてみる。
私のクライエントAさんは30代前半の女性であり、派遣社員であるが、・・・(以下略)
この誤解はいわば長い歴史を担っているといえるが、本稿ではそれを以下の二つの観点から考えたい。一つはトラウマに関与した精神障害そのものの歴史であり、もう一つは特にヒステリーないしは解離性障害の研究の歴史にまつわるものである。
誤解の由来-トラウマ研究の歴史から
解離性障害を含めた外傷性の精神障害一般は、それが正式に精神疾患と見なされるまでに多くの時間を要した。それまではまさに誤解や差別の歴史だったのである。
19世紀の後半は、技術的な近代化と共にその途方もないエネルギーによる被害、特に鉄道災害が、身体的精神的な異常をきたす点が注目されるようになった。そしてドイツの精神科医 Hermann Oppenheim は鉄道事故により中枢神経に目に見えないような器質的な影響があった可能性を考え、トラウマ神経症の概念を提出したが(Oppenheim, 1889)、彼は同時に精神的な部分についても注目していた。同じ時代にパリのJ-M Charcot はこれをヒステリーと同類と考えていたが、Oppenheim はそれとトラウマ神経症を分けるべきだと考えた。ただし Oppenheim はその後徐々にベルリン大学の居場所を無くし、ドイツ精神医学の世界においても多くの批判にさらされることになった(ミカーリ、2017)。それは1889年にビスマルク政権が事故による精神的な後遺症にも賠償を与えるという法律を成立させたことに端を発した。それをきっかけに、賠償を求めて症状を示す患者が急増することへの懸念が高まり、「年金神経症 pension neurosis」という用語さえ現れた。その急先鋒に立ったのが、Alfred Hoche という精神科医で、トラウマ神経症と言う概念がきっかけになって「神経伝染病 nervous epidemic」が起きたといったという。そして1890年のベルリンでの国際医学界ではOppenheim は集中砲火を浴びたという。結局戦争被害者への賠償を定めた法律は1926年に覆されるが、それまでの37年間はこの問題で大論争が引き起こされた。しかし実際には事故保険請求で精神症状が問題となる事例は1,2パーセントに過ぎなかったという。Hoche は、トラウマは症状の発生には触媒的 catalytic な意味を与えるだけであり、そこには願望複合体 wish complex が出来上がるのだとした。そして興味深いことに、1890年以来、ドイツ精神医学界では第一次大戦まではトラウマ神経症は省みられず、代わってヒステリーという診断が用いられるようになった。この様に戦争神経症イコール年金などを求めた症状の形成、イコール疾病利得の関与したヒステリーという誤解が成立したことになる。ただしこの動きは、男性にもヒステリーが存在するという考えを広めることにはなったという。鉄道事故や戦争による被害に巻き込まれる可能性が高いのは成人男性だったからである。そしてこの流れで Charcot が男性でも鉄道事故などのトラウマによるヒステリーが見られると主張したのであった。