2019年5月10日金曜日

ベンジャミンと女性論 ④


母親が生まれた赤ん坊が泣くのを見て、眼をウルウルさせる。赤ん坊の痛みは自分の痛みのように感じる。これも同一化と言えるだろう。では赤ん坊はどうか。目の前の動く影(母親)はそのうち自分にいろいろなメッセージを伝えてくる。母親がニッコリすると自分もうれしい。母親が怖がるものは自分も怖い。母親と自分の心が同じように動くことに気が付く。これも同一化。しかし随分性質が違う。おそらく母親が泣いても子供はその悲しみを感じるだけの力はない。もちろんミラーニューロンが作動して、自分も泣き始める可能性がある。そしてそれに伴う悲しさが生じることで、つまり投影を受けることで同一化という現象が結果的に生じるようになるのだろう。そしてそのうち、母親の痛みは自分の痛み、ということも生じてくるのだろう。ただし母親が子供に示したような同一化は、子供は母親に対してはなかなか起こすことが出来ない。むしろ母親は自分が叩いても痛みを感じない、スーパーウーマンのように感じるのかもしれない。それに子供は親といても、結局は「親の心子知らず」なのだ。自分が子供を育てる段になり、ようやくわかってくる。ということは、母子関係で生じる相互の同一化の質は、かなり違うことがわかるだろう。
さてここでもう一つややこしい問題があるので、挿入しておきたい。それは対象化objectification という問題だ。子供はこれを、おそらく同一化の前から行っている。こちらの方が先なのだ。お母さんをおっぱいを差し出す存在、怒ってポカポカ叩いても大丈夫な存在として扱う。もし同一化の前提条件として、他者の全体対象としての把握が必要であるならば、部分対象としてしか見れない段階では相手はみな対象でしかなくなるのだ。そして同一化と対象化との関係もややこしい。「同一化の対象とする」という言い方も成り立つわけで、両者は同一の現象をどのようにみるかということにもよるのだろう。母親を「私と同じことを感じている」存在とみなすという意味での同一化は、母親を自分が好き勝手に想像したイメージに従わせているという意味では立派な対象化と言えなくもない。その意味で対象化とは、「モノあつかい」、こちらの勝手な都合に合わせる、支配する、というニュアンスが伴う。実際英語の口語でのobjectification には、「モノ扱い」というニュアンスがあるのだ。こう言うことができるだろうか? 相手を自分と同じ体験をしているのだ、と決めつける同一化は、同時に対象化をしていることになる。それに比べて相手の気持ちを一生懸命汲み取り、それをわかるという同一化は、この対象化としてのニュアンスは少ないだろう。でもこれも程度問題で、また主観の問題だ。親に同情を向けられた子供が「私の気持ちって、そんなんじゃないわ。勝手な想像なんてしないで!」と判断したとしたら、親が一生懸命子供のためを思う気持ちも、対象化として体験されるからだ。