フロイト、武士道、そしてマゾキズム
フロイトの示唆する死生観も伝統的な日本における死生観も、ある一点で共通項を持つ。それは死すべき運命を受け入れることで生じるデタッチメントの状態を言い表しているということだ。それは精神の解放であり、自由の獲得である。フロイトは口腔癌により迫りくる自らの死を間近にして、鎮痛剤を使用することを最後まで拒否した。彼はそうすることで、薬剤により冒されない思考の清明さと自由さを求めたのであろう。そして痛みが自由な思考を奪いかねない段階に至り、彼はもはや鎮痛剤を用いないことの無意味さを自覚して主治医のマックス・シュールにその投与を頼んだ。こうして最後にフロイトは自らの手で、自由意思により死を選んだと言えるだろう。他方武士道における死への姿勢はより積極的でラジカルである。時にはその死は選択的に選ばれさえする。「葉隠」に表された死生観に強い影響を受けた作家三島由紀夫は、自殺を「自由意思の極致の表れ」(p.92)と呼んだ。そしてそれを表明した3年後に実際に割腹自殺を遂げた。私たちは彼らの死に方から何かを学ぶことが出来るであろう。しかし一つ考えなくてはならないのは、彼らの死の選択は、ある種の自由さの享受であるとともに、葛藤状態にピリオドを打つ行為でもあったという可能性である。
「無常ということ」でフロイトは喪を完全に行いきることによるリビドーの解放を唱えた。しかし後にフロイトは、喪の作業は一生終わらないという見解へと傾いた。このように喪の体験は、死の受容は実は間歇的に、行きつ戻りつ体験され続けるものである可能性がある。リビドーが解放されたという感覚は、再び失われた対象への承継へと道を譲る。自らの死を受け入れることで得られた自由さは、おそらく一瞬体験された後に再び死への不安や恐怖により覆い隠されていく。このように考えると無常であることが提供する美的感覚はそれが瞬間的であることを最初から運命づけられていることがわかる。Hoffman が描いた死生観の弁証法的な在り方はそれを見事に表している。それは生きることに伴う避けがたいアンビバレンスの在り方であり、死すべき運命を受け入れては放棄すると言った振り子運動を意味する。そして死すべき運命を受け入れた瞬間に垣間見るのは、アンビバレンズから解き放たれた、ある種の静的な理想郷的な境地と言えるのではないか。それはフロイトが子宮内体験を想定した母子合一の大洋感情に似て、また「涅槃原則」で表した恒常的な虚無の状態と考えることが出来る。そうであるとするならば、瞬間的なデタッチメントによる美的快楽は、ある種の陥穽であることも意味している。それはこの美的な快楽の瞬間が自虐性を帯び、私たちを死という名の定常状態へと急がせる可能性がある。しかしそれはまさに快楽原則の彼岸であり、永遠の無でしかないのである。
三島は死を選んだ瞬間、本当に自由だったのか、それとも自虐的な自己満足とヒロイズムに捕らわれていたのだろうか? 北山が問うているマゾキズムの危険性はそのことを言っているのであろう。