2018年11月3日土曜日

不可知性について 1

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(マタイ6章、コリント4:18)

 無、ないしは「不可知なもの」という概念について考えるが、まずその前に論じたいのが、このテーマと共に見え隠れするテーマであり、それが「真実 truth」である。無について、不可知について探求する私たちは痛みや安楽や感情を持った生身の人間であり、この一件捉えどころのないテーマを追い続けるためのエネルギーを必要とする。それが「真実」の探究への情熱である。真実が存在するかどうかは別として、それがあると仮定してそれを追求することは、人間のそれたる所以ともいえるだろう。では真実とは何か。それはこの冒頭に示した聖書の言葉にあるように「永遠に続くもの」なのだ。おそらく人の心に一番安心感を生むのは、「変わらないもの」なのである。生れ落ちた子供が辿る心の変化を考えればいい。変わらないものをもとに人の心は構成されていくのだ。そのために母親は変わらない必要がある。ただし静止していればいいかといえばそうではないし、そうする必要はない。いろいろな表情を見せる中で、子供はその中の変わらないものを抽出していく。対象イメージを持つということはそういうことだ。対象は(少なくともその本質部分は)変わらないからこそ、安心して接近することが出来る。フロイトはこれを identification といったが、同一化、というわけではなくむしろ同定 identify することである。同定とは、ある経験を持った時に、「あ、あの時のあれだね!」 と心で確認できることだ。そうすることで記憶がなぞられ、最初の対象の認識が生まれ、それと違うものとの区別が成立していく。
ミニオンズという映画があるが、たくさん出てくるへんてこなキャラは、それぞれキャラクターが違うそうだ(こんなことも知らなかった。昨日クライエントさんに教えてもらった。だがどうだろう。オソマツくんのように彼らが全く同じ格好をしていたら、同定が出来ない。あるキャラだけはいつも同じ、という部分があって、初めて世界を知ることに繋がっていく。一人だけ(一匹だけ?)変わらないミニオン、例えばスチュワートがいてくれることで、彼と、その他大勢を区別でき、ようやく世界を把握し始めるのだ。