2016年11月9日水曜日

退行 再推敲 松木先生の部分

松木の見解
次に松木邦裕の退行に関する論考に触れたい。松木は以前から退行の意義を問い直す論考を発表している。松木はその2015年の論文で、精神分析の中でも特に退行概念を無視しているのが、英国クライン派であるという。ただし Klein, M 自身は妄想-分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしており、むしろその後継者たちの中には、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちも多いという。そして松木は Bion, W の次の言葉を引用する。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う」(Bion1960
 松木は自らの退行理論を述べるにあたり、Menninger, K., Balint, M., Winnicott, D 3名の分析家の退行理論をまとめる。そして Balint にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であり、比較的単純な議論であるとし、むしろWinnicott の退行理論により大きな意義を見出す。
ちなみに松木が退行についての考察を進めた経緯が書かれているが、興味深い。彼は1994年に「精神分析研究」誌に掲載された「退行について―その批判的討論」がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情などにも触れつつ論じる。彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」が過激すぎて物議をかもしたというのだ。彼は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向であるため、幼児帰りした母親の面倒を見る、というニュアンスを生むという。それに比べて転移なら二者心理学的で、未来志向である。そして松木はそのような視点は、Balint にはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、Winnicott は転移の視点を入れている点で、評価に値するとする。その上で松木が問いかけるのは、退行の概念が現代の精神分析においてはたして価値を依然として持ちうるのか、という点である。そして退行の概念は転移の概念の中に発展的に吸収される可能性を示唆している。

松木邦裕(1994)退行について―その批判的討論 精神分析研究 38(1) p.111
松木邦裕 (2015) 精神分析の一語 第8回 退行 精神療法 41(5) p.743753 
Bion1960Cogitation, Karnac Book, London


治療への応用可能性について-筆者の考え

最後に筆者の考える退行の概念について論じたい。退行の概念は、その意義を認めるのであれば、精神療法への応用において最も重要となろう。松木(2015)の指摘するとおり、退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。すなわち退行も治療関係上に生じた転移の一つの形態として理解しうるのだ。
 ただしそれは転移を退行に優先されるべきものとして理解することを必ずしも要請しない。転移関係の中には退行が明白な形では生じないものもあるからだ。一つ端的な例を挙げるならば、治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを解釈した、という場合はどうだろう? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、このままの治療関係ではどこにも着地点が見つからないのではないか? なぜなら治療のある時点で患者が「先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるような関係性の成立は必須となるからである。そしてそこで成立しているのはある種の親しみと安心感、リラックスした状態の成立を意味し、それを表現する用語としては結局「退行した状態」が当たらずとも遠からずということになる。土居の文脈では、それは甘えられる関係と呼んでよく、また Balint の分類では、それは良性の退行に相当するであろう。