バリントの退行概念
(以下の文章は、「治療論から見た退行(中井久夫訳)」(特にp.193~)の文章を下敷きにしているが、中井先生の翻訳はやはり特徴的なので、一部改編を行っている。)
Winnicott と同様に退行を治療理論の文脈で論じた分析家としては、Balint を欠かすことはできない。彼の退行理論は、Ferenzci,S. の臨床経験に対する詳細な考察を介したものである。そしてその体験から私たちが学ぶべきことを模索しつつ、退行を両性と悪性に分ける。
Balint
によれば、良性の退行とは、相互信頼的な、気のおけない、気を回さない関係の成立が難しくないものであるという。その退行は心の新しい始まりnew beginning に至るものである。そして現実への開眼とともに、退行は終わる。
退行は認識されるためのもの、それも特に患者の内的な問題を認識してもらうためのものである。またその際の要求、期待、ニードの強度は中等度である。臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がないとされる。
他方悪性の退行では、相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回さない雰囲気は何度も壊れ、しばしば、またもや壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線、補償として絶望的に相手に纏いつくという症状が現れる。悪性の退行は、新たらしい始まりに到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険と嗜癖類似状態発生の危険が絶えずある。
退行は外面的行動をしてもらうことによる欲求充足を目的としている。要求、期待、ニードが猛烈に激しいだろう。臨床像に重傷ヒステリー兆候が存在し、平衡状態の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わる。
この単純明快な分類がいかに多くの臨床家の役に立ったことか。バリントは次の点を主張することを忘れない。「退行とは一人の人間の内部で起きることでなく、関係性の産物なのだ。」
Balint
の退行理論にあり、Winicott になかったのは、この悪性の退行の記述である。そしてこれが貴重なのは、臨床家は常にこの悪性の退行を起こしかねないクライエントと直面しているからである。
しかしWinnicott, Balint のいずれもが指示しているのは、患者が持つある種の治療者への依存関係が治療にとって持つ意味である。ただしWinnicott が適切な環境が与えられることにより、過去のいわばトラウマ状況の記憶の解凍ないし再回答(現在の概念では記憶の再固定化に相当するであろう)につながるというやや楽観的な見方を提供するのに対し、Balint はそこにある種の嗜癖状態に陥るという意味での釘を刺したといえるであろう。
退行概念と甘え
この論旨の流れて触れておかなくてはならないのが、甘えの問題である。特にその提唱者である土居が甘えを治療論と結びつけているからである。土居はE.Kris
の提唱した「自我に奉仕する退行」に触れ、「精神分析療法自体このような「自我に奉仕する退行」を組織的に一貫して行なうものである、ということができる。」(土居、1961,P43)と述べている。患者が治療者に甘えられることは治療の一つの目標だとする。もしそうであるとしたら、治療場面における退行はむしろ土居にとっては必然ということになる。
「精神療法と精神分析」(金子書房、1961)において、土居は以下のように述べている。「・・・実はここが重要な点であるが、われわれが物心つき始めた幼児について、彼は甘えているという時、この幼児は甘えられない体験を既に知覚しているので、そのために甘えようとしている、と考えられることである。いいかえれば、
日本語でいう場合の甘えの現象は、原始的葛藤と不安の存在を暗示していることになる。その葛藤は受身的対象愛が満足されないことによって生起したのであり、そのために意識的にこれを満足させようとする時に、甘えの現象が観察されると考えられるのである。」言い換えれば患者は甘えという受け身的な対象愛を満たされたかったといういわばトラウマを抱えたままで治療に参入することになる。
実は精神分析では、土居に先んじて古澤平作先生が類似の考えを持っていた。古澤はウィーンで
S.Freud から本場の精神分析を学んだが、のちにその技法に則って患者に洞察を求めることから心が離れ、しだいに「自己と患者との融合体験こそが患者の生命の出発点であると考えるようになった。いわゆる「とろかし療法」と呼ばれたものであるが、この考えはおおよそ Winnicott に近いことになる。来日していた Jan Abram はイギリスにおける Winnicott 研究の第一人者であるが、この点を強調し、「土居とウィニコットは同じことを言っている!」「どうしてウィニコットではなく、Balint を引用しているのだ!」と英語で言っている。松木先生は反対なさるかもしれないが、確かに似ていると思う。ついでに言えば、古澤先生もそうか。