2.フロイト理論と恥
恥にまつわる議論は1980年代よりアメリカでも高まっている。従来「罪の文化」と形容されていた西洋社会において、一般ないし臨床家の関心が恥に向かうことは、これまで欠落していた議論や視点を補うという意味で重要である。そしてこのような恥のブームは、フロイト以来の伝統的な精神分析がそれを不十分にしか扱わなかったという事実を、あらためて浮き彫りにしたといえる。
フロイトが生涯第一に依拠したのは、いわゆる欲動論であった。それは本来は生身の人間が主観的に体験する情動や感情にも及ぶ議論であり、そこには恥の感情も含まれてしかるべきであった。ところがフロイトのリビドー論はむしろ生物学的、機械論的であり、その筆致は常に科学者として人間の心を客観的に切り分けていく冷静さを表していた。
フロイトが情動 Affekt について扱わなかったわけではない。しかし彼が中心的に論じたのは、欲動が過剰に抑圧されることにより生まれる罪悪感であった。他方、恥についてはフロイトの著作の中でいくらか言及されているものの、その理論の中ではむしろ片隅に追いやられているといった印象を受ける。
フロイトが恥の問題を十分に扱わなかったのはなぜかという問題に分け入ろうとすると、そこで出会うのがフロイト独特の自己韜晦であり、彼自身が生身の人間として持ったであろう様々な感情に対する秘密主義的な態度である。フロイトが恥を扱わなかったことに防衛的な意味があったとすれば、それが翻って彼の精神分析理論とどのように関わっていたのかという問題は、精神分析を学ぶものにとって興味深いものであり、またフロイト学徒として一度は問わなくてはならない問題だろう。それはフロイトの打ち立てた精神分析学の未知の可能性や、その限界を示すことにもなるからだ。
恥に関するフロイトの理論はさらに、フロイトという人間自身が果たして「恥の病理」を持っていたかという問題へとつながる。いわゆる「過敏型自己愛パーソナリティ障害」(Gabbard, G) の概念も最近ではよく知られるようになっているが、このパーソナリティ障害に見られる「恥の病理」とは、自分を恥ずべき存在だと感じ、低い自己価値を持つと同時に、他方では理想自己イメージが強く、非常に高い達成水準を持つもの、として規定した。フロイトにはこの性格傾向があてはまるのだろうか? フロイトはシャイなナルシシストだったのだろうか?
アメリカにおける「恥ブーム」を起こしたいくつかの著作は、右の問いについて、すでにある程度の答えを用意している。そこで何人かの識者により指摘されているのが、精神分析学の創始者であるフロイトが恥の問題をことさら回避していたように見られる点である。それらの論者は、実は恥こそフロイトにとって最も重要な体験であったものの、それだけにそれを抑圧していたのではないかということを示唆している(Broucek, 1991)。フロイトが最も抑圧していた感情の一つが恥であり、いわば精神分析理論はそのネガとしての意味を持つとしたら、これは重大問題ということになろう。これは妥当な指摘なのか、あるいは極論なのだろうか?
以下に、これらの疑問に関して、いくつかの著作を手がかりにしつつ私自身の考えを進めたい。
フロイトにおける恥 -その原著から-
フロイトの作品はドイツ語で書かれたことは言うまでもない。そこでドイツ語で恥がどのように表現されるかについて若干論じたい。ドイツ語には恥を表現するものとして、Scheu(ショイ)、Scham(シャム)、Schande(シャンデ)
の三つの語がある。このうちScheu は英語の shyness にほぼ対応し、自分の持つ陽性、陰性の価値は直接は問われず、見知らぬ他人や不馴れな状況に身をさらすことへの一種の生理的ともいえる抵抗が相当する。要するに「恥ずかしい」という気持ちである。一等賞を取ってクラスで表彰されてもこれは生じるだろう。ということは自分が目立ってしまうことへの面映ゆい気持ち、と考えればいい。他方のScham は、性的な事柄と深く関連している。それはつまり本来秘めておくべきものが人目に触れてしまうことに対する抵抗という意味を持つのである。さて問題はSchande である。これは英語のshame
に相当し、要するに恥辱をさす。この場合は積極的に自己価値低下や自己嫌悪を生むような正真正銘の恥を意味することになる。「恥の病理」にかかわる恥は、まさにこの Schande であると理解できるのだ。
ところがこのうちフロイトが用いた語としてそのドイツ語の全集 Gesamelte Werke の最終巻の目録に出ているのは、Scham と Scheu の二つであり、Schande の項目はない。また Scham と Scheu のうちフロイトが主として用いたのは、Scham である。従ってフロイトの意図した恥とは、もっぱら性的なニュアンスを含んだ Schamだということが出来る。フロイトの論じた恥が主として Scham である点に関してはキンストン(Kinston,
W.,1983)が論じているのがおそらく最初であるが、フロイトの用いた恥の概念を考える際には重要な点である。またその意味で「そもそもフロイトは恥に関して定見を持っていなかった」というブルーチェック
(Broucek, 1991)の見解もまんざらうなずけないわけではない。ただし私の印象では、フロイトが使う恥 Scham, Scheu の概念は、意外に単純で分かり易い。少なくともそこにはいくつかの基本的な公式を考えることが出来、フロイトの Scham や Scheu の使用例の多くは、それらに当てはめることで整理可能である。しかしその公式について論じる前に、フロイトが恥について書いている部分を、その著作集の中から拾い出してみよう。