自己開示と「自分を用いる」こと
さて現代の精神分析においては、自己開示はタブー視されるテーマではなくなってきている。自己開示についての論文は1960年代あたりから多くなってきているからだ。そして私自身は、自己開示の問題は、より広い文脈で、すなわち治療者が「自己を用いること use of self」(T. ジェイコブス) という観点からとらえ直されるべきであると考える(「新しい精神分析、岩崎学術出版社、1999年」。「自己を用いる」というジェイコブスの著作にみられるように、治療において治療者の側が自分をいかに用いて治療を行うべきかというテーマは、受け身性や匿名性という原則を考えるうえで必然的に浮かび上がるテーマといえるであろう。たとえ治療者は受け身的にではあっても、確かに自分自身の感受性と人生経験を通して患者に会い、介入を行うのである。患者の自由連想に見られる無意識内容を把握するという治療者の作業は、決して自動的、機械的ないしは技法的なものだけとは言えない。そこには治療者の人間としての在り方が深くかかわっているのである。積極的であれ、受け身的であれ、治療が治療者自身を用いるという形で起きている以上、自己開示を治療的な介入の中で特別視する必要も無くなってくる。それに、のちに述べるように自己開示はあるものは自然に、ないし不可避的に、無意識的に治療場面で生じてしまっているものでもあるのだ。
治療者の自己愛問題
以上は自己開示についての分析理論の中での基本的な留意点について述べたが、実際に臨床を行っていると、最近時々耳にすることがある。それは治療者の「過剰な自己開示」がしばしば問題となっているということだ。これはある意味では私にとって「目か鱗」というところがある。「治療者が自己開示をしない」、ということが問題になっていると思っていたところ、実は「し過ぎ」が問題になっているということに思い至ったからである。
私は最初は「過剰な自己開示」はごく一部の治療者に起きることかと思っていた。大学院生が初めてのケースを担当して緊張し、沈黙の扱いに窮し、気がついたら自分の人生経験を夢中で語っていたという話もある。ベテランの療法家がスーパービジョンの場で自分の話が止まらないというバイジーの訴えならかなり頻繁に耳にする。そのうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。その問題とは、治療者の自己愛の問題である。
私は最初は「過剰な自己開示」はごく一部の治療者に起きることかと思っていた。大学院生が初めてのケースを担当して緊張し、沈黙の扱いに窮し、気がついたら自分の人生経験を夢中で語っていたという話もある。ベテランの療法家がスーパービジョンの場で自分の話が止まらないというバイジーの訴えならかなり頻繁に耳にする。そのうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。その問題とは、治療者の自己愛の問題である。
考えてみれば、治療者の職業選択そのものが自己表現や自己実現の願望に根差している可能性があるのはむしろ異論のないところだろう。一般に臨床活動に携わる人々は、他人を助けたい、人の喜ぶ姿を見たい、という希望を持つ人が多い。外科のように匿名性や受け身性の概念が希薄な科で活躍している先生方の中には、「患者さんからの『ありがとう』の言葉に支えられて毎日の激務に耐えている」などという事情を公言なさる方が少なからずいる。(何日前かのブログでも書いたな。)
精神分析の文脈ではたちまち逆転移扱いされてしまうようなこれらの心性は、しかし治療者一般に広くみられる可能性がある。「他人のために尽くす」という志自体は高潔であり少しも責められるところはないであろうが、それはしばしばその純粋な目的を逸脱して「患者とのかかわりに自己愛的な満足を見出す」というレベルにまで堕する可能性がある。そこでしばしば生じるのが「患者さんを話し相手にする」あるいは「患者さんを聴衆にして自分のことを語る」ということではないだろうか。
精神分析の文脈ではたちまち逆転移扱いされてしまうようなこれらの心性は、しかし治療者一般に広くみられる可能性がある。「他人のために尽くす」という志自体は高潔であり少しも責められるところはないであろうが、それはしばしばその純粋な目的を逸脱して「患者とのかかわりに自己愛的な満足を見出す」というレベルにまで堕する可能性がある。そこでしばしば生じるのが「患者さんを話し相手にする」あるいは「患者さんを聴衆にして自分のことを語る」ということではないだろうか。
ただし本稿では、如何にそのような傾向を抑制するかという具体的な問題について論じる余裕はないので、治療者の自己愛が自己開示の問題といかに深くかかわっているか、という問題提起にとどめたい。
「自己開示」の定義
さて本稿における、自己開示の定義であるが、それを以下のように示したい。
「自己開示とは,治療状況において治療者自身の感情や個人的な情報などが患者に伝えられるという現象をさす。」「自己開示はそれが自然に起きてしまう場合と、治療者により意図して行われる場合がある。(精神分析事典、岩崎学術出版社)」
これは私の考えであるが、実は精神分析事典のこの項目を書いたのは私なので、この路線で論じることをお許しいただきたい。
「広義の自己開示」の分類としては、以上の者を考え、これをいかの二つに分ける。それらは A意図的に行われる自己開示 (「狭義の自己開示」)
B 不可避的に(自然に)生じる自 己開示 である。
B 不可避的に(自然に)生じる自 己開示 である。
そしてA意図的な自己開示の分類をさらに二つに分ける。
A 1 患者からの問いかけに応じた自己開示
A 2 治療者が自発的に行った自己開示
A 1 患者からの問いかけに応じた自己開示
A 2 治療者が自発的に行った自己開示
さらに不可避的に生じる自己開示については
B1 治療者に意識化された自己開示
B 2 意識化されない自己開示
の二つに分類することが出来るだろう。
B1 治療者に意識化された自己開示
B 2 意識化されない自己開示
の二つに分類することが出来るだろう。
これらの分類の意味にはどのようなものがあるのだろうか。私の立場は以下のとおりである。これらの4つに分けた広義の自己開示については、それぞれに治療的な意義とデメリットがある。それぞれを勘案しながら、その自己開示を用いるかどうかを決めるべきであろう。そしてその前提にあるのは、そもそも自己開示が治療的か非治療的かは状況次第である、ということである。
以下にこれらの個々の項目について、治療的なメリット、デメリットを考えたい。