2014年2月8日土曜日

日本人のトラウマ(3)

第2章 アスペルガー障害の怒りと「自己愛トラウマ」

私はかつて3年間ほど米国の州立病院の思春期精神科病棟で患者の治療に携わったが、そこでは来る日も来る日も患者の怒りの暴発の処理に追われた。もともと非行や行為障害の前歴のある少年たちが多く入院していたこともあり、病棟で患者がスタッフや他の患者に暴力をはたらき、椅子を投げたり壁を壊したりという暴行を見せるということが日常茶飯事に起きていたのである。その暴行が看護師の言葉による説得だけではおさまらない時は警備員が駆けつけ、少年は四肢拘束(両手足を紐でベッドにくくりつけられた状態)を施されて保護室に入る。はじめは怒り狂い、大声で悪態をつき、もがいて手足を振りほどこうとしていた少年が、やがて落ち着きを取り戻し、憑き物が取れたような表情になり、場合によっては神妙な顔つきになり謝罪の言葉を漏らすといった一連の流れを毎日繰り返して観察することになった。
もちろん私は警備員や四肢拘束などの強制力を加えることなく少年たちの怒りを静めようと、あらゆる手段を試みた。患者達に対して言葉でかかわり、その怒りを鎮めようとしても、ほとんど効果を発揮できないという失望体験を何回も持った。結局薬物の投与や四肢拘束の使用といった方法以外に彼等の暴発を止める有効な手段はあまりないことが多く、これは当時精神分析家になるためのトレーニング中であった私にとっては大きな失望であった。
しかしただし一つ患者達の話が一致しており、非常に納得した事がある。それが「自己愛トラウマ」の理論にもつながったわけであるが、それらは彼等の暴力が始まる際には、まず彼ら自身が傷ついていると感じていることだ。彼等が異口同音に語るのは、「自分たちは最初に攻撃されていた、自分たちが被害者なのだ」ということであった。スタッフに生活上の注意を受けたり、同じ病棟に入院している患者に馬鹿にされ、からかわれたりという一見些細な体験が彼らのプライドを深く傷つけ、それが彼らの怒りの暴発の引き金となっていたのである。破壊衝動を示す人の多くが、実は自分たちが被害者だと考えているという事実が問題を非常に複雑なものにしていることを知ったことは非常に有益だった。どれほど凶悪で破壊性に満ちた雰囲気を持つ少年でも、その内側に敏感な部分、自らのプライドに関わる部分を抱えている。怒りはその部分に触れた際に爆発的に生成されるのである。
この自己愛の傷つきが怒りを生むという仕組みが、怒りの「自己愛トラウマ」モデルというわけだが、実はこの部分を説明しようにも、少年たちはこのプライドの傷つき部分についてはあまり認めようとしない。それを認めることは自分たちの弱さを受け入れることだと感じているせいなのだろうか? 彼らは自分の怒りの正当性を声高に主張する一方では、心の中で傷付いている弱い自分には容易に目を向けようとしなかった。彼らの中には自分たちが本来暴力的な人間であるということを信じたがっている人々も多かったのである。


「怒りは抑圧され、暴発する」という常識

本来怒りは人の心の中核部分に存在するという考えも、実は根強く存在している。それはより古典的なモデルであり、「怒りの暴発モデル」とでも名付けるべきものだ。こちらの方が「自己愛モデル」よりもっと素朴に、おそらく大部分の人々にとってなじみ深いものだろう。
 従来日本語には「堪忍袋の緒が切れる」という表現がある。また昨今は「キレる」という言葉が流行っている。これらは奇しくも「きれる」という表現を共有するが、そこには「はりつめる」「解き放たれる」「爆発する」といった運動のニュアンスが伴う。
しかし「きれる」にも二つの異なる状況があるといわれる(1)。すなわち常に「ムカツいて」いる状態で生じる常態的な怒りと、怒りをほとんど示さない子供が突然見せる突発的怒りであるが、これらはある意味では正反対の性質を有していると見ていい。このように「きれる」という私たちの体験に近い表現さえも二種類に分類されてしまうほどに、人間の怒りという問題は多様であり、その性質は時には互いに矛盾した性質を示すのである。
ともかくも怒りの「自己愛トラウマ」説と、「怒りの暴発モデル」はどちらが正しいのだろうか? 
ここで読者の問題意識を喚起する意味で、ある理屈を提示したい。
いわゆる「ガス抜き」ということが言われる。抑えられていた怒りが爆発することを防ぐためには、何らかの刺激を加えることで「ガス抜き」を図り、発散させる必要がある、という論法は時々耳にする。いかにも「怒りの暴発モデル」に沿った発想だ。新聞の見出しなどで、アジアの近隣の某大国に関して、「農民の反政府的な感情が非常に高まっているので、時々政府主導の小さな暴動を起こさせ、ガス抜きをすることで大事に至らぬようにしている」というような解説を読んだ方も多いだろう。
しかし果たしてこの「ガス抜き」の方法はうまくいくのだろうか? 農民の暴動の対応に苦慮している為政者としては、このモデルの信憑性は、それだけ切実な課題であろう。そしてもちろん同様の問題意識は、私たち自身が持っておかしくない。常に怒りの発露を求めているような青少年への対処を迫られる立場の人たちは、どこまで判断を「怒りの暴発モデル」に基づいて行うことができるかは重要な問題である。先に述べた某大国でも、中央政府の指導者の動きを見る限り、意図的で計画されたガス抜きを行っているようには思えない。徹底した弾圧を行うかと思えば、その時々の国際情勢により恣意的としか思えない方針の変換を図っているように見受けられる。
要するに「ガス抜き」に見られる「怒りの暴発モデル」は常には正しくはないことを人は経験的にすでに知っているのである。それは場合によっては非常にうまく行き、別の場合には逆効果を生む。つまり状況次第で正反対のアプローチが必要となるのである。とすれば青少年の怒りを目の当たりにする私たちはこのモデル以外にも別のものを必要としているのであろうか? まさにそれがこの詳論でも問われることになる。

「怒りの暴発モデル」は精神分析が起源である

少し脇道にそれるが、「怒りの暴発モデル」は、精神分析にその起源があることについて触れておきたい。それは分セ的な言葉では「抑圧―発散モデル」と言い換えることが出来る。100年前にフロイトが、リビドー論というのを考えた。心とはある種のエネルギーの流れであると考えたわけだ。そしてリビドーが何らかの形で貯まると、苦しくなって発散されると考えたのである(3)。
ただしフロイトが最初にこの精神エネルギーとして想定していたのは、性的なエネルギー、すなわちリビドーであった。攻撃性については、考えていないわけではなかったが、あまり注意は払っていなかったのである。ところが第一次世界大戦における人の攻撃性の猛威を目の当たりにして、フロイトはこの問題により注目するようになる。そして最終的には死の本能の一部として攻撃性を受け入れるようになっていった。
このフロイトの「抑圧発散モデル」に従えば、怒りの理解は比較的単純明快なものとなる。しかしでは抑圧を取り去り怒りが解放されれば問題は解決するのかといえば、それほど単純ではない。フロイトの心の理解に従えば、怒りの発散それ自体は、むしろ治療の失敗を意味することにもなるのだ。それは防衛としての抑圧の破綻を意味し、行動化や症状形成と同類のものとも考えられるのである。
この「抑圧-発散モデル」で重要なのは、人は性的ないしは攻撃的なエネルギーは罪悪感や羞恥心を生むために、それを自覚出来ずに無意識に押し込む(抑圧する)というプロセスである。抑圧された怒りが解放されるためには、それを意識化し、理解する必要がある。それによりその感情は抑圧され続ける必要がなくなり、したがって後に暴力のような形で急激に発散される必要もなくなるわけだ。そしてそのために無意識内容を探る精神分析が考案され、実践されたわけである。ただしこの無意識内容の探索というプロセスがいかに多くの困難を伴うものだったかは、フロイト以降半世紀にわたる精神分析的な臨床研究の歴史が物語っているのである。
ではなぜフロイトの発想以来100年も経っているのに、この「抑圧発散モデル」は健在なのだろうか? その間に脳科学は長足の進歩を遂げたはずなのに、この「水圧モデル」的な考え方がいまだに多くの支持を得ているのはなぜなのであろうか? それはこれが私たちの日常体験に合致している部分があるためだ。それを以下に見てみよう。