2014年1月9日木曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(25)

治療論にどのように生かせるか?
これまでいくつかのテーマについて論じてきたが、ここで治療論的な含みを述べておこう。「私達は膨らんだ自己愛への侵襲により生じる怒り、恥に対する防衛としての怒りについて理解することで、どのように日常生活を生きやすくできるのであろうか?、つまり二次的な感情としての怒りを昇華することができるだろうか?」である。この問題は私達が他人と良好な関係を損なわず、しかも余計なフラストレーションを抱えずに生きていくためにきわめて重要なことである。
これについて、私は過去にある論文で次のような書き方をした。
これに対する明快な回答などおそらくない。正当な怒りも、恥に基づく怒りも、いったんそれが生じてしまった段階では同じ怒りなのだ。自己愛の連続体はそのどこに傷がついても痛みを生じる。おそらくその怒りの性質の違いがわかるのは、そばにいて眺めている他人なのだろう。他人が「これは当然の反応だ。自分だって怒るだろう。」と思えるか、「あんなことで怒るなんて、余程プライドが高いのだろう。」と感じるか、である。とすれば先の問題に対する解答とは、「最初から自分の自己愛が肥大しないように心がけること」ぐらいしかないのだろう。しかしそうは言っても人は自分の自己愛がどの程度肥大しているかを、常にチェックすることなどできない。それどころか自己愛が肥大すればするほど、その種のチェック能力が損なわれてしまうのが通例なのだ。とすれば日常生活で体験する自分の怒りを一つ一つチェックすることくらいしかできないのだろう。そして毎回ムカッとしたときに自分に尋ねてみるのだ。「今自分は何に傷ついたのだろう?」おそらくそう出来た時点で、二次的な怒りのかなりの部分はその破壊力を失っているはずであろう。

しかしあれから今秋森田療法学会での講演を引き受け、また仏教心理学会でのディスカッサントを経て、随分考えが変わってきた。人は自己愛の肥大が常に生じないよう努力をすべきなのだ。何しろ自己愛の風船が大きくなるのに比例して、自分も苦しいし、何よりも他人に迷惑がかかる。何もいいことはないのだ。それが重要ということであり、自分を小さくしていくという営みなのである。ただしここら辺の議論はもし奇特にもこのブログを追っている人がいたならば(ほぼゼロだな)、夏あたりに散々書いたことなので、了解済みだろう。