2014年1月6日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(22)


えーっと、昨日結構重要なことを書いたのだ。それは恥とは「俺はダメだ・・・」という感覚でありながら、どこか根っこのところにあり、思い出すような感覚が伴うこと。いっそのことトラウマ体験といってもいいかもしれない。
 昔私はある図式を書いた。この図式見に見られるように、自己像とはしばしば二極化している。「ダメな自分」(恥ずべき自己)と「イケている自分」(理想化された自己)と。そして日頃は両方をクルクリしている。





ところが時々ずどーんと「ダメな自分」に落ちてしまう。ではどうやって「ダメな自分」が出来上がるかといえば、一部にはある種のsalient (飛び出た、突出した)な体験があり、そこで形成されるのだろう。これはもっと言えばトラウマ体験に近いものかもしれない。友達から馬鹿にされたり、親からきついことを言われたり。「お 兄ちゃんは優秀だけれど、お前は出来損ないだね。」とか。これは数ある暴言の中でも突出したものとして記憶に残る可能性がある。ただしそればかりではない。自分のことを考えてみよう。私には極端に馬鹿にされたという体験はない。親は私にその種のメッセージを出したことはない。(親の自己愛がそれを抑止しているということは非常によくある。)しかし「ダメな自分」は時々頭をもたげてくる。これは生来の気弱な性格と関係があるらしい。新しいものを恐れ、尻込みするという傾向は生まれながらのものである。
ともかくも50センチの大きさの風船を抱えた私は、周囲がそれに見合った扱いをしてくれないと「俺って本当はダメなの?」が頭をもたげて非常に辛い。これが恥の感覚である。

昨日は変な夢を見た。どこかの学会に出ている。2日間くらいの会期かな。ブンセキ学会みたいだ。いくつかの出番がある。そのうち大部分を無事に終えて、最後のコメンテイターとしての発表の前に気が抜けてしまった。気がつくと発表の時間は確実に近づいているはずなのに、会場のどこで何時からかを把握していない。発表原稿さえも今にも見失いそうである。焦って会場を探すが、なかなか見つからずにバタバタする。「俺ってダメだあ」。ようやく見つけて入ると、司会者が「ちょうど発表者が登場しました。では早速・・・・」ということになってしまう。焦って壇上に上がり、原稿を見つけ出してコメントを読み出すが、発表自体を聞いていないので、頓珍漢なことを言ってしまう。会場がざわつく。司会がまた気を遣い「岡野さんはちょっと忙しすぎて発表内容を間違えているようです」といい、私は「すみませんでした・・・・」と恥じ入り、謝る。その時の感覚。実際に自分が発表に穴を開けてしまった時も夢の中で想像している。人が「あの人、この間に続いて二回連続してすっぽかしたよね。前はそんなことなかったよね。最近オカしいんじゃない?・・・・」それを言われていることを想像した時の感覚。これこそが恥だ。そしてそれは半径50センチの私の自己愛の風船にちょうど見合っているのである。