2014年1月20日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(2)

昨日は精神分析協会の講義。受講者である候補生たちは優秀な方たちぞろいで、タジタジであった。

いかようにも定義ができそうな自己愛であるが、ひとつ重要なのは、そこに方向性を持ったエネルギーを考えないことが重要だということである。フロイトのようにそのような議論をしだすと、ナルシシズムとは相手に向かうか自分に向かうか、というおかしな議論になる。それはある心の状態であり、他人との関わりでも変動し、それが損なわれた時に恥辱体験をもたらすようなもの。安定した養育環境や愛着対象との関係で育つようななにか。
 発達論者はそれをメンタライゼーションとか、内省機能とかメタ認知力と結びつけている。心が安定し、自分のことにも他人のことにも柔軟性のある見方ができる状態。軽い失敗体験や、ちょっと馬鹿にされたりからかわれたりしただけでは容易には揺さぶられないような心の安定性、という感じである。ただしこれがうまく形成されていないと他人に肯定されることを必要以上に求めたり、逆に簡単にいじけたりするのだ。
自己愛の風船モデル
ここで自己愛を風船に例えることを提案する。人はみな自己愛という名の風船を持っている。内容はよくわからない。突き詰めていくとメンタライゼーションにまで行き着いてしまうのだから。健全な自負、自分を大事にする気持ち、健康な自信、プライド、自負心、自惚れ・・・・。言い換えることはたくさんできるであろうが、とにかく風船の中身の議論は後回しにしていいのだ。
 それをあえて風船に例えるのは、それが自己愛の持つ二つの性質をうまく表現できるからである。それは風船の大きさと、もう一つは風船の壊れやすさ、敏感さである。
まず風船の大きさとは何か。それは自己愛がどのくらい大きいかということであるが、もちろんそれを計測するのは難しい。そこで簡単に捉えるならば、「自分より弱い立場で、自分が上から目線でいられる人の数」で表される。学生のクラブ活動を思い出してもらおう。一年生としてサッカー部に入る。2、3年の先輩は皆自分より経験も多く、技能も優れているとする。彼はとても自己愛的には振る舞えないだろう。最初は小さくなっているだけだ。かろうじて同じ一年生の新入部員とだったらタメ口はきけるかもしれないが、大部分の人には「下から目線」(そんなのないか?)でなくてはならない。あのイノセさんだって、高校時代にテニス部(適当に想像)に入った日は絶対あんなに偉そうにしていなかっただろう。
 すると風船が小さいということは、大部分の人に対して遠慮をし、頭を低く接することになる。そして大きいというのは上から目線で一日の大半を居られるということだ。
みなさんはここで私が風船の大きさの比喩を用いつつ、自己愛を非常に総体的なものとして扱っていることがわかるだろう。そう、「自己愛的な人」という一般的な人がいるというのではなく、自己愛的に振舞う人がいる、というだけだ。そしてどんなに自己愛的な人でも、自分より「強い」立場の人に対して自己愛的に振舞う人などいない。よほど空気が読めない人間でない限りはね。