2013年9月3日火曜日

トラウマと解離(6)

ただし回避行動が顕著だからといってトラウマを扱わなくてはならないかといえば、必ずしもそうではないだろう。例えば会社でパワハラに遭った際に、その会社にはもう行けなくなったとしても、転職が可能であればとりあえず問題はないことになる。もしその会社にこれからも勤め続けなければならないような境遇にあるとしたら、その会社で起きたトラウマを扱わなくてはいけなくなるかもしれないが、そのトラウマの生じた場所に永遠に足を踏み入れなくて済むのであれば、もちろんそちらを選択するべきである。
 ここら辺の理屈は、恐怖症への対処ということとも絡んでくる。例えば高所恐怖の人が、高いビルなどない田舎暮らしをした場合は、それに対処する必要はないだろう。「治療」は不要なのだ。しかし都会生活を続けるとしたら、ビルの高層にある場所に行くたびに怖い思いをしなくてはならなくなる。その場合はそれを直すための治療が必要になる。このように治療の必要性は相対的なものだ。解離性障害の場合も同じように考えればいい。黒幕さんが姿を現さない限りはそれを扱う必要はない。しかしそれが日常生活に支障をきたすなら、扱うしかない。(何か当たり前のことばかり書いている気がするが。)
 ただしそれをどう具体的に扱うかについては非常に難しい問題をはらんでいる。過去の外傷体験を想起することが、再外傷体験につながることもある。すなわちそれによりまた生々しくその記憶が再現するようになる可能性がある。ただしここで理屈上は、と但し書きを付けておきたい。
私の臨床経験からは、過去の外傷記憶について聞き出すことで、その日から再びフラッシュバックが起きるということは実は一度も経験していないのだ。「寝た子を起こすべきではない」とは言うものの、「寝た子はなかなか起きない」し、「おきてもまたすぐ寝てしまう」というのが私の考えである。少なくとも寝た子が起きた原因が深刻なトラウマ体験であったとしたら、それは新たなPTSDの発症と考えたほうがいいであろう。安全な治療室で過去のトラウマを想起してもらっても、それがもとで再びフラッシュバックが起きるということは普通はないのだ。

ところでこのトラウマの早期ということを考えると、最近の記憶に関する知見を視野に入れざるを得ない。ちょっと明日からそちらに寄り道してみる気になった。
 題して「トラウマ記憶の科学」である。