2012年8月10日金曜日

続・脳科学と心の臨床 (74)

タメット氏の説がどこまで正しいかはわからないが、非常に有力な仮説とするべきだろう。何しろ体験談だから説得力がある。実際私たちは顔の認識、感情の認識、あるいはその場の雰囲気を読むこと等について、そして言葉の使用について、サバン並みの力を持っていると言えるかもしれない。そしてそれぞれが右脳、左脳を全力に使って達成していることなのである。そして私たちが発達障害などの人々を考える時は、それらのサバン並みの力をたまたま有していない人の事を言うのかもしれない。その代わり彼らが優れている計算能力、記憶力などについては、まさに天才のごとく感じてしまうのだろう。(ちなみにタメット氏は、あれだけの記憶力を有しながら、人の顔を覚えるのが非常に苦手であるという。)

ところでサバン症候群を説明する二つの仮説を出した。「皮質の張り出し、代償説」と「抑性の低下、混線説」である。両方ともちゃんとした学説だが、名前は私が雰囲気で付けている。そして両者はまったく異なるものではないと言えるだろう。結局サバン状態においては、普段は(あるいは普通の人は)あまり活用されていない皮質が何らかの理由で活性化され、素晴らしい力を生み出している状態と言える。それは皮質の張り出しでも、抑性の低下でも起きうるだろう。一昨日は脳梗塞のあとに美術の才能に目覚めた人のサイトを紹介したが、それは美術的な活動をつかさどる皮質野への抑制がとれて活動が亢進する場合も、それが梗塞により死んだ皮質の機能を取り戻すために新たに張り出された皮質の利用を通じて起きているという場合もありうるのだ。
そうは言ってもやはりサバン現象は不思議だ。脳生理学的には全然わかっていない。果たして将来解明されるかどうかも不明だ。それは人間の無限の可能性、まさに宇宙的な可能性を示唆しているとしか言いようがないのだ。(サバンについてはこれでおしまい。)
しかしこのブログ。なかなか「続」の一冊分にはならない・・・・。全体の80パーセントくらいまでは来ていると思うが。



「いじめ問題」を考える(1
トホホ、また原稿が入ってしまった。「イ●●●」という雑誌の増刊号だと言う。まあ、これを機会に少し考えを書いてみよう。とはいえ最初はブレインストーミングから入るしかない。
私ははいじめは決して特別な現象だとは思わない。あるグループが均一化する傾向にある場合、そこから外れる人たちを均一のグループに属する人たちが排除するという力が自然に働く。これはグループの力学の基本にあるように思う。人はおそらくマジョリティーに属していることにより安心感を味わう。少数派に属することが不安なのだ。そして多数派に属することへの志向性と、少数派を排除するという傾向は、おそらく表裏一体のものだ。集団は必然的に少数派を生み出す。後はそこに人が持っているサディズムがどれほど働くかと言うことだ。そしてこのサディズム、つまり人をいじめることによる快感を、大部分の私たちが持っている。それが厄介なのだ。人は放っておくといじめを始める。特に均一なグループほど。そしてあまりに均一でその中に排除すべき少数派が見つからないなら・・・・。人は少数派を人工的に作り出す。ここが人の持つ悪魔的な性質であり、苛めの始まりである。それがどのように頻発し、どのような過酷な形態をとるかはおそらく社会情勢、文化、経済的な問題などがさまざまない絡むのだと思う。
ウーン。こう考えていくと、アメリカの体験がよみがえる。アメリカの社会ではしばしば、どこにも均一さを見出せないような集団が見られる。何日か前に、英語で書いたが、私が精神分析のトレーニングを開始したとき、クラスを構成していたのは、40歳代白人男性(アメリカ生まれ)、20歳代白人女性(アメリカ生まれ)、30歳代パキスタン人の男性、30歳代メキシコ人男性、20歳代後半のコロンビア人男性、そして30歳代日本人の私である。人種もアクセントもバラバラ。こんなグループでは人がいかに違っているかということを、もう積極的に認めていくと言うことでしかまとまらないと言うところがある。アメリカ人の白人男性をマジョリティーに使用にも、全体で一人しかいないのである。こういう集団になれてしばらくぶりに日本に帰ると、本当に違うのである。お互いにていることから来るよそよそしさ。少しでも集団から外れることによる厳しい視線。全然違うのである。