2017年3月28日火曜日

精神療法の強度 推敲 ⑨

通常この種のバウンダリーには、私たちは極めて敏感です。あれほど社交的な身体接触の多い欧米人ですら、通常交し合うハグの中に、通常より強い力、不自然で過剰な身体接触が混入すれば、それにすぐに気がつくでしょう。ましてや日本人の場合には、ほんの僅かな身体接触はとても大きな意味を持ちます。その中でも性的な意味を持つものは即座に感じ取られる傾向にあります。
 身体接触の持つ意味は、またきわめて文脈依存的でもあります。ですから治療終結の最後の日に治療者が握手の手を差し伸べても、極めて自然に感じ取られるとしても、通常のセッションの最後に急に治療者が握手の手を伸ばしてきたら、患者さんを混乱に陥れるかもしれません。すると明白な身体接触と、非接触の間には、極めて微妙なバウンダリーが存在することになります。それは身体接触の程度や、それが行われるタイミングという要素を担っています。
同様のことは心理的なバウンダリーについても言えます。明白な言語的な侵入と全くそうでない言葉の交流、あるいは治療者の明白な自己開示を伴った言葉と匿名性を守ったコメントや明確化の間にあるバウンダリー。治療者は言葉を交わしながら、しばしばそれらのバウンダリー上をさまよっています。実はバウンダリー上のさまよいこそが重要なのであり、そこには驚きと安心がない混ぜとなる、ある種の創造的な交流が行われる可能性があるのです。

2017年3月27日月曜日

「訳者まえがき」を書いた

訳者まえがき ― 眺望としてのホフマン
ネットで拾った、最長のGIF動画

共訳者の小林氏と本書の訳出の作業を開始しからもう5年ほどたつ。毎週毎週、それこそ一行ごとの英文と訳文との照合を積み重ねるのは気の遠くなるような作業だったが、今から振り返ればあっという間という気もする。
本書の意味付けについては詳しくは、巻末の小林氏の「改題」に譲るが、ホフマンの文章は数多くの精神分析の論文の中では異色であるように感じる。それは精神分析について語っているようでいて、およそ人間が携わる生きた営みのすべてに言及しているようにも聞こえる。すべての私たちの活動は、ある種の伝統を固守する反復的で儀式的な側面と、それにとらわれない自由で創造的な面、すなわち自発的な面を有する。そして両者は弁証法的な関係を有し、お互いがお互いにその存在の根拠を与え合っている。伝統なしでは、そこを踏み台にして自由さを発揮し、味わうことが出来ない。またそこを踏み外す可能性を秘めているからこそ、伝統や反復の存在意義が与えられる。精神分析が生きた人間同士の営みである以上、そこにもこの二つの要素が常に関係しあっている。
本書で著者が自らの立場を「弁証法的」と表現しているように、この様な儀式的な側面と自発的な側面の動的な相互関係を常に見据えることが彼の分析家としての立場である。そしてその視点から見える精神分析理論は、一つの眺望を与えてくれるのだ。フロイトの教えに従った伝統的な精神分析はどちらかと言えば儀式的な側面に重きを置いたものであり、関係精神分析と呼ばれる現代的な精神分析はどちらかと言えば自発性の方に重きを置いたものと言えるであろう。そしてHoffman は特にどちらに肩入れするというわけでなく、それを弁証法的な観点から眺め、コメントをする。あらゆる分析理論をその眺望の中にコトンと置いて見せるのだ。
翻訳作業を進めながら小林氏と幾度となく思ったのは、「著者Hoffman は同じことを何度も何度も、言葉を変えて繰り返しているだけのではないか?」ということだ。確かに彼の主張は、そのほとんどが結局は、その臨床体験は、あるいはその分析理論は、弁証法的な視点からとらえ直される、ということである。そうである以上、彼の著作が、1998年に出版された本書以外に見当たらないというのもよくわかる気がする。彼は大切なことは本書で言い切ったし、これ以上何を言ってもこれまでの言いかえに過ぎない、という感覚があるのかもしれない。しかし同時に私が思うのは、彼の主張を読むと、いつも新しく新鮮に感じるということだ。以下に私たちの心が弁証法的な思考から遠ざかり、オールオアナッシング的なとらわれに陥りやすいということなのだろうか?
ともあれ本書を一読した読者が彼の眺望を手に入れ、それを自由に使いこなすことを望んでやまない。



2017年3月26日日曜日

精神療法の強度 推敲 ⑧

「心の動かし方」の3つの留意点
これまでミット打ちの比喩、症例A,Bと紹介してきました。そして私の「心の動かし方」は構造を内包している、という言い方をしました。その心の動かし方について、いくつかの特徴を最後にまとめておきます。
1.バウンダリー上をさまよっているという感覚
一つ目は、私はその内的構造を、いつもギリギリのところで、小さな逸脱を繰り返しながら保っているということです。構造の代わりにバウンダリーという見方をすれば、私はその上をいつもさまよっているのです。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいでしょう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのです。これは先ほどのミット打ちにもいえることです。コーチがいつもそこにあるべきミットをほんの少し外してみます。あるいは攻撃してこないはずのミットがこちらに向かってくるような、少し意外なそぶりを見せます。すると選手は怒ったり不安になったり、「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。おそらくそれはミット打ちにある種の生きた感覚を与えるでしょう。もちろんやりすぎは禁物です。いたずらに選手にわずらわしさを感じさせるのではコーチ失格です。しかし選手を刺激し、覚醒させ、やる気を引きを起こすのは、本のちょっとした遊び心なのです。
あるいは実際のセッションで言えば、(以下略)

2017年3月25日土曜日

2017年3月24日金曜日

精神分析とは何か 番外①

少し付け加えた。

この「とらわれ」、というのは大切な言葉です。しかも「無意識的なとらわれ」というところが大事です。この様に精神分析は私たちの日常心理からは隠された部分、無意識部分に向かっているという点はきわめて特徴的といえるでしょう。ふつうのカウンセリングでは、目に見えるような、意識的なとらわれ、精神分析では無意識的な、目に見えない無意識を扱う、という言い方をすればわかりやすいかもしれません。
比ゆ的に言うならば、ゴルフコースでのバンカーのようなものと言っていいでしょう。グリーンに向かって自由に球を打って言いというわけでなく、いたるところにあるバンカーを避けて、打っていかなくてはなりません。打ち方に制約が出てくるでしょう。しかもそのバンカーが打つところからは見えなかったり、いたるところに出没していたら、もっと球を打ちにくい。
 ゴルフの比喩がわかりにくい人のためには、心を自由に走り回ることの出来る原っぱだと思ってください。そこにところどころぬかるみや落とし穴があったら、自由に走り回れませんね。しかもそのぬかるみや落とし穴が目に見えにくいものだったり、気がついたらいつの間にかそこに落ちていて、そのことにも気がつかないような類だったらどうでしょう。決して自由にそこを走り回ることが出来ません。そしてここで自由にゴルフの球を打ったり、原っぱを駆け巡るということが、自由に発想し、自由に行動するということの比喩になっているというわけです。


そのバンカーや落とし穴を見つけていくのがカウンセリングでしょうが、精神分析の場合は無意識的なとらわれ、というのですからふつうはわかりにくいような、本人にもわかりにくいような落とし穴を見つけていくという作業です。

2017年3月23日木曜日

精神療法の強度 推敲 ⑥

スペクトラムの中での柔構造 ―ある心の動かし方
繰り返しになりますが、私は精神科医ないしは精神療法家として、かなりケースバイケースで治療を行っています。つまり上述のスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には構造が一番大事なのだ」。これを小此木啓吾先生は口を酸っぱくしておっしゃっていました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。というのも私は結局はどの強度であっても、ある一定の「心の動かし方」をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。ここで私は「分析的」という言葉を、内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うという意味で用いています。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。
 ある「心の動かし方」はそれ自体が一種の構造を提供しているという側面があると述べました。その心の動かし方にはすでにある種の構造が内蔵されています。ですから時間の長さ、セッションの間隔などは比較的自由に、それも患者さんの都合を取り入れつつ変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造が厳密に守られることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに、治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
かつて私は治療的柔構造のことを、一種のボクシングのリングのようなものだと表現しました(岡野、2008)。カッチリ決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造は、相撲の土俵のようなものです。足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはありません。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。そのロープの緊張の度合いを、治療者と患者が共有することに意味があります。
岡野(2008)治療的柔構造-心理療法の諸理論と実践との架け橋.岩崎学術出版社

 このようにボクシングのロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。その中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合もまた、かなり構造化されたものです。そして、本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手が「ミットで受けてほしい」、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。いいトレーニングになりました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるはずです。一時間みっちり必要かもしれないし、試合前に5分でいつもの感覚を取り戻すだけかもしれない。しかしここにもたとえば月、水、金の5時ごろから30分ほど、などの大体の構造はあるはずです。さもないと二人とも予定が合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待するでしょう。場所はあまり定まっていないかもしれません。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっていることになります。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのミットの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションという意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりミットを突き出してきて選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くために、あるいは自分のボクシングの能力を誇示するためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。コーチはいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなミットの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。こうして考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、そこに構造があるとすれば、それはコーチのミットの出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。

ここである臨床例について話したいと思います。

2017年3月22日水曜日

精神療法の強度 推敲 ⑤

ちなみにこのスペクトラムの概念について一言付け加えるとしたら、それは精神療法やカウンセリングにはほかにもさまざまなスペクトラムが存在するということです。上に示したのは、セッションの頻度に基づいたものですが、他にも一回のセッションの長さの問題があります。これもは、5分、10分といった短いものから、スタンダードとしての50分、その先にはダブルセッションといって90分、100分のセッションまであります。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間のファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターもあります。医師が心理面接の開始五分前に、例えば心理面接の始まる三時の十分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ三時までには心理士さんにバトンタッチできるだろう、という算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても十分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。そして心理士さんは三時十分に始まったセッションを三時半で切り上げるわけにはいかなくなります。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。
それ以外にもたとえば料金の問題があります。一回三万円のセッション(これが実際に存在することを仲間の臨床家から聞いたことがあります)から、保険を使った通院精神療法までがあります。原則無料の学生相談室での面接ということもあるでしょう。あるいは治療者がどの程度自己開示を厳密に控えるか、ということにもスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついて患者を迎え入れますが、その事情を一切語らなかったと言います。しかし別の治療者なら少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」と言うかもしれません。
さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそれぞれのスペクトラムを持っていると言えるでしょう。

この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体どこかに収まっていることで、あるいは予測可能な揺らぎの範囲内にあることで、治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。

2017年3月21日火曜日

精神療法の強度 推敲 ④

スペクトラム上の「強度」と実質的な「強度」
 この表を見ながら考えていただきたいことがあります。それはこのスペクトラム上の「強度」はいわば形式的なものであり、実質的な「強度」とは異なるということです。つまり週回でも実質的には「弱い」治療もあれば、二週に一度でも非常に「強い」治療もありうるということです。週回でも非常に退屈でかわりばえのないセッションの連続であったりします。頻回に会う関係は、しかしそこでの親密さを必ずしも保証しません。冷え切った夫婦の関係を見ればわかるでしょう。毎日数時間顔を合わせる関係が継続するうちに、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけです。逆に二週に一度30分でも強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるでしょう。そのセッションで一種の暴露療法的なプロセスが行われた時には十分にありうることです。治療者のアクが強い場合もそうかもしれませんね。ただしその二週間のリカバリー期間も十分なサポートが必要になるでしょう。あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりします。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのです。私の知っているラカン派の治療を受けている人は、20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われることがあるそうです。一日度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ません。でもそれも治療としてある社会では成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となります。

2017年3月20日月曜日

精神療法の強度 推敲 ③

精神療法の「強度」のスペクトラムという考え
そこで私は精神療法における「強度」のスペクトラムという考えを提示したいと思います。これは精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがありますが、どれも精神療法には違いないという考え方です。これは私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの名誉の為でもあります。

 まずは精神療法の「強度」を単純に時間的な観点から考えましょう。つまり高頻度で行われる精神療法がより「強い」という単純な考え方です。それを図示したのが、図1です。縦軸には「強度」が示され、横軸には、セッションの間隔が示されます。一番左端に来るのはフロイトの週650分の強度(仮にこれを10としましょう)の精神分析です。通常の450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいということにしましょう。そしておそらく左端近くには、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言います。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれません。それを強度10とするならば、週4回は強度8くらいにしておかなくてはなりません。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人の心がけのせいとは言えないでしょうし、「二週に一度なら意味がないから来なくていいです」というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、週4,5回の精神分析を5年ほど受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを受けたり、行ったりしないで、お前に何が言えるのだ」という事になってしまいます。私はもともと非常に精神分析志向の人間でしたし、分析のトレーニング中に、2000ドルもかけて分析用のカウチを木工技師さんに特別発注し、今での私のかさばる財産になっています。まあ、それは余計な話ですね。
 このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、左端の精神分析から、右端の一番弱い精神療法までの右下がりの曲線で描かれていますが、それはあくまでもなだらかです。つまり、週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に1回、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、そこに特別な段差があるとは思えません。それを行っている治療者のメンタリティーは基本的には変わりはありませんし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが少なくとも心の中では保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、ほかの条件が同じならそれだけ治療は効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そしていわゆる「深いかかわり」は起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行ける旅はありますし、ひょっとしたら非常に印象深いものにもなるでしょう。

2017年3月19日日曜日

精神療法の強度 推敲 ②

 先ず私の立場を表明します。私の立場は精神科医であり、精神分析家であります。まず精神分析家としての私は、週に四回のセッションも、週に一度50分のセッションも実際に行っています。これは精神科医としての仕事とは別に設けられた時間と場所で行っています。しかし精神科医の私の臨床の中では、週一度はとても贅沢な構造です。そして私の週二日の精神科外来のように、8時間の間に30人強のペースで患者さんと会うというスケジュールでは、その中で週一度を維持することには大きな制約があります。そこで私が比較的贅沢に行なえている精神療法は、毎週、ないし二週に一度20分ないし30分です。他の患者さんに対しては、平均して10分、15分以内、時には5分間で診療を終えて次の患者さんを呼び入れなくてはならないという事情がありますから、立場ではかなり無理をしたスケジュールです。
 そしてこの、一回のセッションに50分取れないという事情は、もちろん他の精神科医にも共通している事情ですが、実は臨床心理士についてもいえます。私は心理士さんたちと組んで臨床を行っていますが、それは私の精神科の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々です。そして彼らもとても50分に一ケースではまわって行きません。心理士さん達には一時間に二人会っていただいています。つまり私の実践している精神科医と心理士の共働では、12週間に一度、30分のセッションというのが、事実上のスタンダードになっています。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティックストレス学会で出会う精神科医の先生方も話していることです。「通院精神療法では、二週に一度30分が上限ですね」でだいたい意見が一致します。この二週に一度30分、というスタンダードが事実として存在するものの、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれないという事情があるのです。
でも私は二週に一度、30分でも大まじめで分析的な精神療法をやっているつもりなのです。もちろんそれは週4回、ないし週1回50分と比べて、かなりパワー不足という印象は否めません。たとえて言えば、精神分析という四輪駆動や、週一度というSUVほどには走れない、いわば軽自動車という感じでしょうか? でも軽自動車でもそれなりの走りはしていますし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走って行っている気がします。私も「それならばお乗せできますよ」と思っているし、患者さんも「それくらいならガソリン代が払えますよ」、と言ってくれるのです。ですから私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、それなりに満足しています。
 どうして私はそのように感じるのでしょうか?それは私はその構造いかんによらず、分析的な心の動かし方をし、同じような体験がそこに成立していると考えるからです。このことについてもう少し順序立てて説明いたしましょう。

2017年3月18日土曜日

精神療法の強度 推敲 ①

すでに何回も推敲しているが、止まらない
はじめに
この様な企画に参加させていただくことを非常にありがたく思っています。そこでこの機会に、なかなか他の場ではいえないことをお伝えしたいと思います。
 まずはこの週に一度のセッションというテーマから始めますが、私にはどうもこのテーマについては、「週一度で申し訳ありません。でもそれなりに立派に仕事が出来ますよ。」という apologetic (謝罪的)なニュアンスを感じます。「精神分析は本当は週に度以上なんですが、週に一度だってそれなりに意味があります。でもたった週に一度であるという立場をわきまえていますよ。もちろん正式な精神分析とは言えないことは分かっています。」と言っているようです。しかしそれは同時に一種の戒めでもあります。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ」という一種の超自我的な声に対するものでもあるのです。さらにこの声は時間についても言っています。「一回45分ないし50分のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ」、という戒めでもあります。
 私はあらゆる決まり事、特に暗黙の裡の決まり事に対して、いったんは疑うことにしています。特に現実と遊離しているように感じられる決まりごとに対してはそういたします。自然の(ことわり)を教えてくれるようなノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親和性を感じます。心理の世界では臨床例以実証研究脳科学がそれに相当します。「週一度以上一回
50分でなくてはならぬ」にも同様にそれを疑う気持ちがどこかにあります。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれます。週4回は私はあるケースについては実行していますし、それを理想化する部分が確かに私の中でもあります。しかし私が持っている患者さんの多くにとってそれが満たされない以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのです。

2017年3月17日金曜日

精神分析家は何か ⑥

さて会話はこれで済んでしまうのかもしれません。夫婦の間でいろいろな会話が起き、心の底を吐露しあう、ということは普通は起きないのです。ただその代わり、私たちはそれを職場の同僚などに話すのです。気のおけない、そして一緒にいて安心感を覚える、そしてそれを話してもおかしな人と思わないような、こちらの弱みを見せてもいいような人を選ぶのです。たとえばAさんは職場の上司を選びました。
夫は職場で比較的面倒見のいい上司に、昼食時にその話をする。
A「妻にそう言われた時、どうしてそんな風にとるのだろう?と思いましたよ。」
上司「それで奥さんに何か言い返したの?」
A「いや別に何も言い返しませんでしたが…」
上司(半ばからかうように。)「日ごろのキミの行いがよくないんじゃないの・・」A「・・・・・」上司「まあ、冗談だが、あまり信用されていない上だね。でもそんなに深く考えることもないよ。俺なんて、うちではほとんど会話がないよ。それに比べれば羨ましいもんだ。」
Aさんはおそらく上司にそう言ってもらえて、なんとなく気が楽になるとともに、少し見えてくる部分もありました。カミさんにあまり信用されていないらしいということはその通りだと思いましたが、それを気にするというのもあまり必要がない、ということが分かりました。
ところがそこで話は終わりません。実はAさんは分析を受けていたのです。
そうAさんは精神分析のトレーニングを受けていたのです。
それからAさんは分析家のもとに向かう。その頃は妻とのエピソードのことを忘れかけていたが、自由連想の中で記憶がよみがえってくる。
A「朝、こんなことがあったのです。(と説明する。)」
分析家 「それであなたはどんなことを考えますか?」

2017年3月16日木曜日

精神分析とは何か ⑤

私はここで一つ、皆さんにぶっちゃけでお話したいことがあります。それはもちろん精神分析に関係することです。私たちは、実は自分の心について話すのが、すごく苦手だということです。それは実は分析家もそうなのです。皆さんは分析家といえば心のエキスパートとお考えかもしれません。人に心の内を話すことを促し、それを聞くことを専門としている人間が、それでも自分の心を話すことが苦手、口下手、というのは一見おかしな話かもしれませんが、実際にそうなのです。そこで、心を話すとはどういうことなのかを少し一緒に考えてみたいのです。というのも人は歴史的に見て、心を話すことを避けてきたのです。心とは、言わば自分の内部です。それを見せるのは抵抗があるわけです。みなさんだって服を脱いで自分のはだかをさらすのは嫌でしょうし、体から出てきたものを人目にさらすのは絶対にいやなはずです。だから心を話すのもすごく抵抗があって当然です。でもどうして言葉を話すかといえば、意思を伝達するためです。そして意思を伝達することと心をさらすことは全く違うことです。人が最初に何を話したかはわかりませんが、おそらく、「これとそれを交換しよう」、とか「食べ物はないか」、とか「ここから出ていけ」、とかでしょう。絶対に「私はおなかがすいた」「私はあなたを愛している」とか「私はあなたが嫌いだ」ではないはずです。これらの言葉は発せられる代わりに、すぐに行動に移されていたはずです。ですから人が心を話すということと、言葉を話すということは全然違うということがわかるでしょう。むしろ言葉は、心を話さない代わりに、あるいはそれを隠すためにあったりするのです。(ただしこう言ったからといって、私たちが心を話すこともたくさんあります。心を話すことは、evocative で、感情をくすぐり、あるいは気持ちを解放することもあります。ああ寒い! 痛い! いい加減にしてよ! 愛しているよ!こうやって私たちは気持ちを解放したり、感情を吐露して人を動かそうとしたり、楽しんだりします。もちろんそのような目的での心の吐露はあります。ただしそれらを別にすれば、私たちは概して感情の言語化を抑制する方向に行きがちです。)そしてこのように考えると、フロイトが精神分析を考えだすまで、人が精神の病について、言葉を交わすことでよくしていこう、という発想を持たなかったことが大して驚きではないでしょう。心を話すことは、恥ずかしいことで、自分の弱みをさらすことでもあります。ですから私たちはそれを通常はしません。私たちでさえそうなのです。でも時々それが必要なことがある。そしてその場合に心理療法や精神分析が役に立つのです。一つ私の例を挙げましょう。
•A(中年男性)は妻が最近咳き込むことが多くなっていることに気が付く。朝食の時に「キミはちゃんと医者に行った方がいいんじゃない?」と声をかける。
•Aが職場に出かける際に玄関まで見送った妻は「あなたは自分に何かの病気が染ると嫌だから、ちゃんと医者に行け、と言ってるんでしょう?」という。Aは腑に落ちなかったが何も答えず、そのまま職場に向かう。

2017年3月15日水曜日

精神分析とは何か ④

 さてもう一つの例は少し複雑です。ある人は「自分は屑で、生きていてもしょうがない」と思っていた人の話です。この方の場合はかなり複雑と言えるでしょう。そのとらわれというのは深刻で、一つの記憶に根差しているわけではありません。(略)
「精神分析は特別なやりかたで、分析を受ける方と精神分析家とが交流する実践です。分析を受ける方がしだいに自分自身を無意識的な部分も含めてこころの底から理解し、とらわれから自由になり、生き生きとしたこころのゆとりを回復させることをめざしています。」(HPより)

 この部分は、では具体的にどのようにして治療を進めるかということを書いてあります。私たちが行うのは、非常に近い距離から言葉を交わし合うことです。実際に治療者と患者の顔の距離は数十センチといったところです。治療者は患者さんの頭の上のかなり近い距離から話しかけることになります。そのようなプロセスで患者さんの心がほぐれ、いろいろ話せるようになると、患者さんはかなり心の奥まで開示することになるでしょう。私たちの脳はふだんは、強い抑制を行っています。大脳皮質は、あれを言ってはダメ、これを言ったら恥をかく、など理性でがんじがらめにしています。それが少し和らぐことで、そのとらわれについて話せない部分が少しずつ明らかになってきます。とらわれとは、本来は人に簡単には言えないことばかりです。それだからとらわれとして定着しているというところがあります。

2017年3月14日火曜日

精神分析とは何か ③

  さてもう一つの例は少し複雑です。ある人は「自分は屑で、生きていてもしょうがない」と思っていた人の話です。この方の場合はかなり事情は錯綜していたと言えます。そのとらわれというのは深刻で、一つの記憶に根差しているわけではありません。
(以下略)


2017年3月13日月曜日

精神分析とは何か? ②


精神分析とは何か?
(日本精神分析協会HPより)
精神分析は20世紀のはじめにウィーンでジークムント・フロイトによって始められました。それは人間のこころが意識的なこころと無意識的なこころの両方から成り立っているという考えを基礎にしています。私たちは誰でも、ある種の無意識的なとらわれのなかで生きています。そのとらわれが大きすぎると、苦しくなり、ゆとりを失い、ときにはこころの病になります。 
  この部分の解説です。とらわれ、というのはいい言葉です。いくつかの例をあげましょう。ある人は幼いころに近所の年下の子供を怪我をさせてしまったのではないかという疑いをずっと持っていました。喧嘩になり、叩かれて叩き返した時、手が耳に触れたというのですが、その時鼓膜を破ったのではないかということが気になっているというのです。(以下略)
 さてこの例から言えることは、このとらわれから自由になることで、自分自身を受け入れることが出来るようになったことです。この過去の記憶の回復という現象は、おそらく分析を考えるうえで一番わかりやすく、また分析の一つの在り方を端的に示しています。それは自分を発見するということと、自分自身を「自分は自分でいいんだ」と、受け入れるという両方を差していることになります。

2017年3月12日日曜日

精神分析とは何か ①

このセミナーのテーマは、精神分析とは一体何か、ということですが、精神分析家、という仕事があり、精神分析オフィスを開いていて、そこに患者さんがやってきて、一日分析をして、それを主たる収入とする人たちがいるというわけではありません。それで食べていける人たちはごくわずかでしょう。アメリカでも精神分析だけで食べていける人はごくわずかでしょうし、日本では聞いたことがありません。大体どんなに有名な分析の先生でもたいていはそれ以外の精神療法をしたり、精神科の外来をやったり、大学の先生をしたりして、そこでの収入があって生活をしています。ただし分析家たちの中には、そのように分析一本で生活していくことを理想としている人たちは沢山います。精神分析家たちはおおむね非常に高い理想を持ち、忍耐強い人種です。彼ら自身が週4回以上、おそらく3年以上の分析を受け続けて分析家の資格を取った以上、そのような人たちが忍耐強く、また分析の掲げる理想を追い求める傾向があるのは、必然なのです。
さてこの写真はその創設者シグムントフロイトの一番脂がのりきった時期の、おそらく60歳代の頃の写真ではないでしょうか?
 フロイトは1800年代の半ばに生まれました。大体どのくらい昔の人かといえば、例えばこうやって話をしている私は60歳ですが、私はフロイトが生まれた時からちょうど100年後が誕生日です。その意味ではずいぶん昔の人です。そしてその人が作り上げた理論がいまだに大きな力を持っているのは実に不思議なことです。フロイトが提唱した精神分析理論をうんと短く言えば、次のようなことです。「人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出される。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤を表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうる。」これは私たち分析家から見たらまさにそれ以外に言いようのない、精神分析の定義ですが、一般の方には分かりにくいかもしれません。

2017年3月11日土曜日

また書評書いた

書評

日常診療における精神療法 10分間で何が出来るか 中村敬() 星和書店、2015


本書は非常に興味深い企画に基づいている。精神科において「10分間で何が出来るか」という問いには、精神科医は高々10分程度しか外来で時間が取れない、というやや自嘲的なニュアンスと、しかしそれを言い訳にせず、むしろその中で何が出来るかを積極的に考えようという前向きな、あるいは野心的な意図がうかがえる。そして本書を手に取る精神科医の中には、「実は自分の場合はせいぜい5分しか取れていないな」と考えている方も少なくないのであろう。一昔前に「三分診療」という言葉があった。現在は五分以上の診療にしか「通院精神療法」が加算されないため、精神科ではこの言葉は死語になりつつある。そこで場合によっては本書に続いて「5分間で何が出来るか」も真面目に企画する必要があるかもしれない。それほどに我が国の精神科外来の通院人数は増加の一途をたどっている。本書のような企画はそれに対応した、大変意義深いものである。
本書の概要をここに示そう。編者中村敬先生は言うまでもなく森田療法の第一人者であり、精神科医の中では深い精神療法マインドをお持ちの方である。第1章の座談会ではその中村先生が中心となり、「日常診療における精神療法:10分間で何ができるか」と題して西岡和郎,松本晃明,渡邊衡一郎といった気鋭の諸先生方と日常臨床における短時間の精神療法的なかかわりについて、それぞれの治療的な創意工夫を語り合う。それ以降はそれぞれの精神疾患群のスペシャリストが、みずからの10分間の用い方を開陳する。第2章は渡邉博幸先生による統合失調症スペクトラム障害(統合失調症)の日常診療、第3章は肥田裕久先生による統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群、第4章は鈴木映二先生による双極性障害と関連疾患、第5章は菊地俊暁先生による抑うつ障害群、第6章は中村敬先生による不安症群、第7章は中尾智博先生による強迫症および関連症群、第8章は仁木啓介先生による心的外傷およびストレス因関連障害群、第9章は野間俊一先生による解離症群、第10章は塩路理恵子先生による身体症状症および関連症状群、第11章は林公輔先生による摂食障害、第12章は山寺亘先生による睡眠─覚醒障害群、第13章は椎名明大先生による物質関連障害及び嗜癖性障害群、第14章は林直樹先生によるパーソナリティ障害、第15章は今村明先生によるおとなの発達障害、第16章は岡田俊先生によるこどもの発達障害について論じられる。
全体を読んだ感想としては、まずは私が駆け出しの頃に学んだ笠原嘉先生の「小精神療法」の精神が今でも根強い影響力を持ち、精神科医にとっての支えとなっているということがある。それは第1章の座談会でも具体的に語られていることである。
 また本書の構成は、あくまでも1はじめに、2初診、3再診、4終結、という章立てなため、肝心の10分診療はその中の3(再診)で限定的に論じられることになる。そしてそのスペースが小さいために、そこに様々な療法を列挙するだけで終わってしまう傾向にある。そのために本書が各疾患ごとの治療論とあまり区別がつかなくなってしまう傾向も感じた。10分間のために訪れる患者のだれもが持つ「話を聞いてほしい、わかって欲しい」という共通部分は捨象されてしまう傾向にあるという印象も受けた。むしろ典型的な10分診療のシナリオを、具体的な言葉の交わし合いも含めて提示してもらう、という方が企画にあっていたのかもしれない。
本書は執筆者が多いことで若干散漫な印象を受けるかもしれないが、それぞれの臨床家が自分自身の臨床上の知恵を開陳しているところは大きな強みである。読者はそのうち心に響いたどれかをお土産にすることが出来るであろう。「再診では一言でも患者さんの強みに触れるべきである」という今村先生の記述などは重要である。ただし本書中にあった、「鬱の患者さんには『必ず良くなる』と伝える」というのには少し首をひねった。治癒ではなくても症状の改善も含めて「良くなる」可能性はあるので嘘ではない、という説明だが、患者さんがこれを治癒することを保証されたと感じる(勘違いする)可能性は高いであろう。予後が良好であることがよほど明白でない限り、私にはこの言葉を言うのには抵抗がある。私はその代りに「今より楽になる可能性はもちろんある」という言い方を用いている。
総じて臨床的に非常にためになる良書である。あらゆる立場にある精神科医が本書を手に取ることを願う。



2017年3月10日金曜日

書評書いた

脳はいかに意識をつくるのか脳の異常から心の謎に迫る2016/11/5
ゲオルク・ノルトフ (), 高橋  (翻訳) 白揚社
絶好の機会が訪れた。私がまさに興味を持つような本の書評依頼を受けたのである。脳科学者でありかつ精神科医のゲオルグ・ノルトフによる心の探求の書である。
まず内容を簡単に紹介しよう。
序章
序章では古くからある哲学的な問題、すなわち心はいかに生起するのか、意識や自己や情緒といった心の活動の本体は何か、といった問題を最新の神経科学的な視点からとらえる「神経哲学neuro-philosophy」という分野が紹介される。本書はすなわち神経哲学の書なのだ。そして本書の特徴は、それを精神や神経の障害を持つ人たちの脳所見から探求しようと試みた点である。
1 意識の喪失――心の背後に存在する脳を探究するにはどうすればよいのか?
現代の神経科学者たちは意識、自己、情動、アイデンティティ、自由意志などの心に関する概念と格闘するようになった。彼らは脳の活動がこれらの体験にかかわる瞬間をとらえることを目指す。それが神経哲学という分野であるというわけだが、その世界で最近起きているのが、脳における「安静時活動resting-state activity」への注目であるという。それまでは精神の活動は外界からの刺激に反応することにより確かめられていた。それが外因的、かつ認知的な脳のアプローチだが、脳は外部からの刺激を受けずに、静かに休んでいるように見えても、実は活発な活動を行っていることが最近の fMRI などの研究によりわかってきたのだ。そしてそれが他の分野でも論じられるようになってきているいわゆる「デフォルトモードネットワーク」の活動(アルツハイマー病においてその活動が最初に低下する部位としても知られる)に対応するのである。

2 意識――神経活動と心の変換メカニズムとは何か?
この章ではいよいよ本書の中心テーマである、正中線領域(大脳皮質正中内部皮質構造、CMS )の話が出てくる。植物状態の患者でも、自己に特定的な刺激(たとえば自分の名前)に対して、非自己特定的刺激(たとえば他人の名前、など)とは異なる反応が見られ、それはこの CMS を中心として生じていることが分かったのである。そして意識をつかさどる脳の活動として、G.エーデルマンの「視床皮質再入連絡路」の概念と、その弟子G.トノーニによる「情報統合理論」が紹介される。要するに意識とは脳全体がグローバルに情報を伝達処理する活動に伴って現れるのだ。脳の一部でしか処理されていない情報は無意識にとどまるが、それが脳全体に広がる際に意識が生まれる。そしてその際ゲートキーパーの役割を果たすのが、前頭前野・頭頂野であるという。これらの部位は、局所的な動きを全体に移して意識化させるか、それが無意識にとどまるかを決める。ただしその意識が向ける対象はもちろんごく一部の内容、すなわちワーキングメモリーが扱える内容に限局されるわけである。その章ではさらに安静時脳活動の変動性と意識との結びつきについても記載されている。いわば脳内のハイウェイの交通量による変動の大きさが、意識活動の高さを意味するというわけであるが、この議論は第7章につながる。

3 自己 この家には誰もいないのか?
この章では自己という、哲学にとっては極めて重要なテーマに脳科学から迫る。脳科学では最近自己参照効果 self-reference effect が論じられている。自分に関する情報に対して反応する特定の領域がある。それは事故などで海馬が損傷すると消失するというのだ。そしてここでまた CMS (が登場する。そこが結局主観の宿る場所ではないかと最近は考えられているのだ。ジルバッハたちは、情動、安静状態、社会・認知のメタ認知を脳のどの部分が司るかを調べ、その共通部分が結局この CMS に重なったことから、CMS は本来的に「神経社会的である」と結論付けた。そしてさらに、安静時活動の場所とも一致することを見出したのだ。
4 抑うつと心脳問題――精神疾患は、実のところ心の障害ではなく安静状態の障害なのか?
 この章では、うつ病における脳科学的な変化について論じられる。著者はうつ病においては自己焦点化や身体焦点化が高まり、同時に環境焦点化の減退が見られるという。つまり自分の自己意識や身体についての意識が過剰に高まる一方で、外界からの情報の処理が低下しているのだ。それは正中線領域の一部の活動高進と、正中線外の領域、例えば背外側前頭前皮質(DLPFC)などの速報の領域の活動は低下していることが分かっているという。そして自己特定的な刺激は内部刺激も外部刺激も昂進しているというのだ。
5 世界を感じる――私たちは「世界脳」関係をいかに経験しているのか?
本章では情動体験についての本格的な議論が繰り広げられる。著者はあらゆる感情が身振りなどの情動表現を伴うこと、それを抑制すると情動的感情も抑制されるという事実を示す。そして「情動的感情は明らかに身体化されている」と述べるのだ。著者は、情動が認知処理に関連しているというジェームズ・ランゲ説を支持する実験として、交感神経を刺激した後に異なる文脈に入れられた被験者が、その文脈に従った感情を覚えるという実験を紹介する。例えば怒った表情の俳優のいる部屋に入ると怒りを増幅させ、幸福そうな俳優がいる部屋ではより大きな幸福を体験するというのだ。また情動体験における右島皮質の役割について述べている。右島皮質と前帯状皮質の一部は、脊髄から中脳、視床下部を経て自律的な内臓の反応を統合するループを形成するという。そして島皮質の働きは、内的に導かれた注意により高まり、外的に導かれた注意により低下するという。つまり島皮質は、身体と環境のバランスを常に保っている部位ともいえるのだ。例えばうつ病ではこの右島皮質の活動が損なわれているために内受容入力が低下し、患者は自分の脈拍を自覚できない。その意味で人格とは環境との関係の反映であるという言い方もしている。環境に由来する外需要刺激と身体による内受容刺激の直接的な関係を形成するのが、島皮質などの脳領域なのだ。
6 統合失調症における「世界脳」関係の崩壊――「世界脳」関係が崩壊すると何が起こるのか?
この章では統合失調症の発症に、ニューロン(神経細胞)の興奮の抑制の異常がかかわっている可能性について論じる。大脳皮質で興奮に貢献する錐体ニューロンは、介在ニューロンとGABAという神経伝達物質により抑制されるが、両者に異常が見られる結果として活動が昂進し、とくに背外側前頭前野でその異常が著しいという。視覚皮質や聴覚皮質は通常は入力がこれらの部位により抑制され、フィルタリングされるが、それが行われず、言わば情報の洪水に飲み込まれてしまう。とくに聴覚皮質は安静時の興奮の増大とともに、外部からの刺激に対する反応性が低下する。つまり内側からの声が圧倒し、外側からの情報を圧倒してしまっているのだ。それが幻聴体験の神経科学的な理解となる。
7 アイデンティティと時間――「世界脳」関係はいかに構築されるのか?
この章は最終章であり、かつ難解である。この章での極めて重要な指摘は、アイデンティティの感覚には CMS が重要な役割を演じ、かつその領域の活動が「通時的な不連続性」により特徴づけられるという一種のパラドックスがあるということである。この領域の活動が連続的となった場合には、むしろアイデンティティや意識の不連続を生む。そのことは最終的に定常状態に達したフラットな脳波や、てんかん発作時の高振幅の棘波-徐波は意識の消失を意味するということから分かる。そしてさらに議論は自己連続性に時間のファクターが決定的であるという点への言及がある。そのことはいわゆる時間割引(TD、報酬が先延ばしになるにつれ、どれほどそれへの関心が失われるか)と自己連続性が反比例するという実験から示唆されるという。そしてまたしても CMS が時間の感覚の生成に中心的な役割を発揮するというのだ。
以上本書を読み、章ごとにそのエッセンスをまとめてみたが、私自身内容を十分把握できたとはとても思えない。しかし私が勝手にその意味を読み取るならば、CMS での脳の活動がおそらく私たちが心と呼び、クオリアと呼ぶものの生成に中心的な役割を担っていること、そしてそこでの働きは非線形的であり、非連続的、予測不可能なものとして特徴づけられるということである。それがまさに複雑系としての脳の産物としての心、カオスとしての心の在り方という視点と相通じるものを見たような気がした。
脳科学的な基礎知識を前提とし、また決して読みやすい本ではないが、脳と心を探求するものにとって得るものは大きい。


2017年3月9日木曜日

ナルな人たち 書き直し ⑨

自己愛は皆が持っている

現在私は、人はみな恥をかくことを恐れるのと同じように、相手から認められたいという願いや期待を抱き続けると考えている。その願望や期待は私たちの社会生活の隅々にまで及び、そのあり方はきわめて流動的であり、状況により変化する。例えば職場で自分より目上の人とすれ違った時にぞんざいな挨拶しかされなくても、あなたは特に傷つくことはないかもしれない。ところがすぐ次の瞬間にすれ違った部下の頭の下げ方が小さかっただけで、あなたは憤慨するかもしれないのだ。あるいは朝立ち寄ったコンビニの店員に無視されたような気がして、午前中いっぱい不愉快な気分が抜けないということもあるだろう。
このように自己の存在やその主張を認められたいという願望を大多数の人が持つものとしてとらえることは重要である。本書では自己愛の弊害を強調して描いたが、自己愛は私たちにとって自然で、欠くことのできないものでもある。誰もが自己表現をし、他人にそれを聞いてもらいたいという願望を自然に持つ。そして皆がそれを持っているために、互いが互いの話を聞きつつ、自分の主張をそこに織り込むという形で対人交流が成り立つ。自己表現はギブアンドテイクであり、互いに譲り合うべきものでもある。自分の話もして、相手の話にも耳を傾ける。互いの話に刺激されて話が発展していく。それが楽しい会話だろう。しかしそこに、特に自分の話を聞いてほしい、という強い願望を持つ人が現れる。たまたまその人が力を持つと、その自己表現の願望が肥大し、人を押しのけて暴走を始める。人がナルシシストになるときである。
この最終章を書いていたある日、私は自宅近くの喫茶店で本を読んでいた。3人のお年寄りの女性が入ってきて私の隣の空いている席を占めた。どこかに一緒に出かけた帰りらしい。親しい仲であることが様子からわかる。3人とも明らかに70代以上と見られる。その中で一人の女性が気になった。Aさんとしよう。彼女はとても声が大きい。気がつくとAさんはひっきりなしに話している。残りの二人も隣どうして静かな会話が起きることがあるが、Aさんは隙あらば割って入り、自分の話題に引き寄せていく。結局三人の会話というよりは常にAさんの声がずっと鳴り響いているような感じなのである。残りの二人は当惑をしているように見えたが、Aさんを特に排除することなく、それなりに和やかな時が流れていた。
きっとAさんは家庭でも敬遠されているのではないか? 家族の誰も彼女の話を黙って聞こうとはしないのだろうか、それとも家族はかなり我慢してその話に相槌程度で応えているのだろうか? あるいはAさんは夫に先立たれて長い間ひとり暮らしで話し相手を欲しがっていたのだろうか? Aさんもナルシシストの部類に入るのだろうか? いろいろ想像が膨らんだが、いずれにせよAさんの自己表現の願望は宙に浮いてしまって、誰にも受け止めてもらえない悲しみがしばらく心に残った。
みなが心の底で自分のことをわかって欲しいし、認めて欲しい。どんなに無口な人だってそうである。ブログやツイッターがいかに多くの人に支持されているかを見ればわかる。自己表現の欲求は自然なものであり、むしろそれがないほうが心配だろう。しかしその度が過ぎる場合が問題なのだ。
最近私がよく考えるのは、適切な形で自己表現をし、それに興味を示す人に応答してもらうようなシステムは作れないか、ということである。それはナルシシストたちの一方的な自己表現を聞き続けることから人々を解放するだけでなく、おそらくは気弱な人々にも適切な自己表現の機会を提供するかもしれない。このIT社会ではきっとそのような仕組みを作ることが出来るだろう・・・。
最後は私の空想の話になったが、言うまでもなく本書も、私の自己愛の表現手段の一つである。私の話の一方的な押し付けにならなかったことを望む。

2017年3月8日水曜日

ナルな人たち 書き直し ⑧

自己愛と恥は、光と陰の関係である

幸いにも私自身はあまりナルなタイプではないと自分では思っている。むしろ気弱で、人前に出るのは恥ずかしく、苦手なタイプである。だから最初に私が関心を持っていたのは「恥」というテーマだった。これは後に関心を持つようになり、本書のテーマとなった自己愛とは、いわば正反対なものとも考えられよう。自己愛とは自分を他人に示したい、認められたいという願望を伴う。他方の恥は、他人から見られることを避け、人前から身を引くという傾向を生む。自己愛と恥は、先ほども述べた通り表裏一体の関係にあるのだが、はじめはそのことは考えていなかった。
このように書いていると思い出すことがある。高校生の頃、Sというクラスメートがいた。私はどれだけ彼をうらやましいと思ったことか……。彼は私が欲しいものをたくさん持っていた。スポーツは万能で勉強もよくできた。しかし特に人前で物怖じしない態度が素晴らしかった。全校生徒が集まる生徒会でも、「ハーイ」などと平気で挙手して意見を言う。Sのように奔放にふるまえたらどんなにいいだろう? でもそうしている自分をイメージするとたちまち羞恥心がわいて手足がすくんだ。
どうしたらSのようになれるのか? 否、私はどうして彼のようになれないのか。彼と私はどうして違うのか、などと思い続けた青春時代だった。しかしこう書いてみると、恥と自己愛に関する私の関心の原点は、まさにここら辺にあったことがわかる。それは、私が羞恥心が旺盛だった、という一事にはとどまらない。他方には自己を表したいという強い願望があるからこそ、私はそれを阻む羞恥の問題について考えざるを得なくなった。私が自己主張をしたい、人に存在を認められたいという願望を持たなければ、私は自分の羞恥を自覚することもなかったのである。
自己を表したい、認められたい、という願望を広義の「自己愛」と考えるならば、私は恥と自己愛の深い関係をこの頃すでに生身で体験したことになる。しかし私の中で恥と自己愛のテーマが明確な形で自覚され、結びついたのは、ずっと後のことである。
その後私は精神医学の道に進んだが、当初からいわゆる対人恐怖の心性に興味を持っていた。自分の中にそのような傾向を強く感じていたからというのもあるが、恥をかくことへの恐れは、私たち皆が多かれ少なかれ持っているきわめて重要なテーマであること、しかしなかなか正面切って論じられることがないという事情があることが理解できるようになった。特に欧米の文献には、恥はなかなか出てこないテーマだった。他方では対人恐怖は日本に特有の病理と考えられていた。恥や対人恐怖の研究は、日本の精神医学のお家芸と言ってもよかったのだ。私が一九八〇年代の半ばに渡仏や渡米をしたとき、海の向こうの精神科医たちに手土産代わりに何か伝えられることがあるとしたら、それは対人恐怖についての日本における研究であろうと思っていた。

そして私は一九八七年に米国に渡ったが、欧米にはなかったはずの恥の議論がすでに始まっていたことを知って驚くこととなった。アメリカでは恥に関する精神分析の書籍がすでに目白押しに刊行され、一種の「恥ブーム」が起きていたのだ。そしてそこではおおむね、「自己愛と恥は、表裏一体である」という論じ方をされていたのである。アンドリュー・モリソンの『「恥―自己愛の裏面』(Shame: Underside of Narcissism.1989という本は特に私にとっては非常に大きなインパクトがあった。彼の主張は、第六章でも紹介したハインツ・コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考であると言った。そして「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても明確な定義をした。そしてこの頃から、私の中でも恥と自己愛は互いに関連したテーマとして扱われるようになったのである。

2017年3月7日火曜日

ナルな人たち 書き直し ⑦

終章を付け加えることになった

終章 - エピローグ 実は皆が持っているナルシシズム

この本もまとめにかからなくてはならない。本章は最後の章でもあるし、エピローグでもある。そこで私のこれまでの個人的な体験を含めて、自己愛について思うところを書いてみたい。
私が本書で描いてきた自己愛な人たちは、おおむね傍若無人で自分のことしか考えていない人たちのように受け取られたかもしれない。確かに彼らは多くの場合は社会の中では強者であり、虐待者の側に立ちやすい存在と言える。彼らの病理を理解し、治療的に扱うことは多くの人を救うことになるのだ。
 しかしこのような自己愛者の振る舞いを理解するためには、彼らの心にある、実は非常にか弱く敏感な部分を把握する必要があるということも、本書をこれまでお読みになってある程度お分かりいただいただろう。彼らはそこを突かれ、侵害されたと感じて、周囲に対して反撃しているという場合がほとんどなのだ。この本の執筆の前に、私は『恥と自己愛トラウマ』(岩崎学術出版社、2014)という本を書いていたが、そこではこの自己愛者たちの脆弱性について多くを論じている。彼らの多くは自己愛的なトラウマを受けやすい人々であり、だからこそそれが他人への攻撃に向かいやすい、という説明だ。ちなみに本書の内容の一部がこの本とかなり似通っている部分があるが、それにはそのように執筆時期が重なったという事情があることを、ここで改めてお断りしておきたい。

2017年3月6日月曜日

ナルな人たち 書き直し ⑥

怒りの二段階説

ここで怒りが生じるメカニズム、「怒りの二段階説」に関して少し説明したい。怒りというのは、第一段階としてあることが生じ、その反応として第二段階で生じるものである。この第一段階に起きるのが、自己愛トラウマによる心の痛み、というわけだ。
私たちは怒りを本能に根ざした、それ自体が純粋な感情として考える傾向にある。破壊本能、破壊衝動といった言葉は、そのような直接的な怒りの性質を表したものと言える。もちろんそのような怒りもあるかもしれない。しかし多くの場合、怒りは最初に別の感情がわいた後に、つまり二次的に生まれることがわかっている。それがこの「怒りの二段階説」という言葉の意味なのだ。
実はこのような考え方は一般心理学にも見られることを、ここで示したい。最近怒りをどのように理解し、コントロールするかということが話題になっている。いわゆるアンガーマネージメント(怒りの統御))と呼ばれる考え方ないしは手法が臨床の場面で知られている。米国ではうつ病でも薬物依存でも、およそあらゆる治療手段の一環としてこれが登場する。つまり「自分の怒りが生じるプロセスを理解し、それを自らコントロールできるようになりましょう」というのが趣旨だが、その一つの決め手は、怒りを二次的な感情としてとらえるという方針なのである。私がここに示すのは、アンガーマネージメントのレクチャーなどで使われる、「怒りの氷山」の絵(1)である。このような図はネットなどで非常に多く見ることが出来るが、どれも大体似たような図柄なので、私がそのプロトタイプとなる図を作ってみた(省略)。
この図が表わしているのは、怒りというのはその人の傷つきや恥や、拒絶されたつらさが背後にあり、それに対する反応として生じるのだということである。そしてこのような考え方は精神分析理論とは無関係に、一般心理学的な考え方としてそうだということを表している。ここで水中にある部分の感情をご覧いただきたい。拒絶、恥、プライドの喪失…。いずれも自己愛の傷つきとして理解できるものなのだ。
かつてハインツ・コフートという精神分析家は、従来のフロイトの理論とはかなり異なる考えを打ち出し、様々な議論を巻き起こした。その中で特に注目するべきなのが彼の「自己愛的な憤り」という概念である。つまり自己愛の傷つきによる怒りをこう呼んだわけであるが、それまでフロイトが考えたような、本能としての怒り以外の怒りもあることを彼はこの概念により主張したのである。
私はこの概念に初めて接したとき、コフートは怒りにはいくつかの種類があり、この自己愛憤怒はそのうちの一つを言い表したものに過ぎないと思っていた。ところが日常的に見られる自分やクライエントの怒りを一例一例検討していくうちに、少なくとも大人になってからの私たちが日常生活の中で体験する怒りは、9割以上(まあ、適当な数字だが)がこれではないかと思うようになったのだ。
 私たちは日常生活でイライラすることが多い。それこそ電車を待つ列に、急に誰かに横入りされただけでも怒りが生じることがある。そしてその種の怒りでさえも、最終的にはこの自己愛憤怒に行き着くのではないかと考えられるのだ。きっとその時は自分の存在が無視された感じがし、プライドが傷ついたというプロセスが介在していることが多いのである。ただそれはあまりにも一瞬で終わってしまうので、それと気がつかないだけだ。

プライドを傷つけられたときの痛みが急激で鮮烈なものであることはすでに述べた。そしてそれは物心つく前の子どもにはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさらできない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rageという言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りは、たくさんある怒りのうちの一つに過ぎないと思っていた。ところが日常的に見られる自分やクライエントの怒りを一例一例検討していくうちに、これが当てはまらない方が圧倒的に少ないことを知ったのである。p.19 l.7l.10
私たちは日常生活でイライラすることが多い。それこそ並んで電車を待っていて、急に誰かに横入りされただけでも怒りが生じることがある。そしてその種の怒りでさえも、結局はこの自己愛やプライドの傷つきに行き着くことができる。さらには明白な形で自分の存在が無視されたり、軽視されたりしたと感じられたときには、この感情が必ずと言っていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分の存在に気づいていなかったとしても、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められた感じがしたなら、それがすでに深刻な心の痛みを招くのである。p.19 l.7l.10


健全な自己愛と病的な自己愛

ここで自己愛を、健全なものと病的なものとに分けることを試みてみよう。もちろん健全な病的な自己愛とを明確に分けることなど出来ない。あくまでもどれだけ健全な(あるいは病的な)部分を持っているかという話である。そしてその際判断基準となるのが、これまでに述べた怒りがどの程度強く、それがどの程度コントロール不能となる可能性があるかということだ。
健全な自己愛を持つ人は、自分が保つべきプライドがあり、それが傷つけられそうになった時には反撃が出来る人であろう。ただし人には守るべき分があり、プライドもそれに沿ったものとなる必要がある。自分と同じ立場の友達には意見の立場を明確に表現しても、年長者や目上の人に対しても同じような態度をとるわけにはいかない。だから健全な自己愛の表現は、自分が社会におかれた立場を鑑みたものになる。
ところが自己愛はある条件下ではどんどん肥大する可能性がある。それは自分にアドバイスをしてくれたりいさめてくれたりする存在が周囲にいなくなる場合である。すると自分の意に沿わない人がいるとそれに腹が立ち、攻撃してしまうようになる。
そのような様子を描いたのが次の図である(省略)。
 この図の中心部分にある濃いブルーの部分が健全な自己愛を描いているものと思っていただきたい。ここは言わば心のパーソナルスペースとも呼べるものである。パーソナルスペースとは私たちの身体の周囲の一定の空間であり、そこに他人が侵入してくることを不快に感じる部分である。ただしもちろん親密な人との接触や挨拶の際の身体接触は除く。誰だって新幹線の自分の席の前のスペースにとなりの人が足を伸ばしてきたら不快であろうし、足を引っ込めてくれるように要求するのは当然である。となりの人の肘が肘掛を越えてこちらに侵入したとしても同じだ。そしてもちろんあなたもとなりの人のパーソナルスペースを尊重するだろう。それと同じように、社会の中で自分が自らの分に従った振る舞いをし、正当に与えられた自らの権利を行使することは健全なことである。
ところがこの心のパーソナルスペースは、甘やかされると肥大していく。自分が限りない権力を持つと信じて周囲にそれに屈服することを要求する。自己愛の風船は膨らみ、ちょっとした刺激により爆発する可能性が出てくるのだ。

2017年3月5日日曜日

ナルな人たち 書き直し ⑤

この部分全面書き直し
六〇、七〇年代の学生運動の闘士たちに対する批判は数多く論じられた。かの土居健郎先生は「甘えの構造」(1971) の中で、現代社会(と言っても当時のことだが) においては明確な敵が存在せず、また父親的な権力をふるう存在もなく、学生は当分「力試し」に明け暮れるであろうと論じた。そして権威に挑戦しつつもみずからはアカデミズムの世界に身を置き、親から養ってもらっている立場を甘えの文脈から論じた。
土居健郎 (1971) 甘えの構造 弘文堂 
さて私はこの甘え世代の活動家の方々をかなり身近に見てきた経験がある。実は私が卒業後に所属した大学の精神科は、10年先輩に多くの元活動家の先生方がいらした。そして押しなべて彼らは穏やかで優しい方々なのだ。彼らの政治的な活動についてはよくわからないが、臨床医になるともう患者のケアで手いっぱいになるものだ。しかし彼らは普通の精神科医とはいい意味で一味違っているという印象を受ける。彼らはアカデミズムに手を染めることが少ない。同世代の多くが臨床の傍ら実験を行い、博士論文を書き、ともすれば患者をデータを供給してくれる方々としてみてしまう傾向を持つとしたら、彼らは真逆である。彼らはおおむね、旧態然とした収容施設のような精神病院を変革する運動に身を投じた。昔は薄暗く、牢獄のようだった精神病院が明るいフレンドリーな施設に姿を変えていった。彼らはおおむねそれらの病院施設で優しい父親として、患者から愛される臨床家として活動を続けていった。○○大学教授、という肩書など彼らには無縁のようである。彼らがコンビニで、デパートで商品にクレームを付けたり返品を要求したりしているという話は聞かない。
そこで私はやはり同じような結論に行き着く。モンスター的な振る舞いを見せる多くの人は、ごく普通の人である。でも人生の一時期、声高に要求し、自己主張を繰り返すモードに突入する。あたかもそのようなスイッチが私たちのどこかに潜んでいるかのようである。
かく言う私も人生の中で数度モンスター化した記憶があることを告白しなくてはならない。とあるサービスを購入し、不具合が生じてカスタマーサービスに電話をした。いつものパスワードを入れてもログオン出来ない、どうしたらいいだろう、という感じで始まった。最初は私も穏やかだったが、電話口の女性の「正しいパスワードを入れてもログオンできない、と言うことはありません。間違ったパスワードを入れていませんか?」という言葉にキレてしまった。「お願いだから、あたかも私が間違ったパスワードを入れていると決めつけないでください!たった四ケタの、いつも使っているパスワードですよ。相手も機械だから、そんなことだってあり得るでしょう?」といつになく興奮している。声が震えて、泣きそうになっているのがわかる。こんなに怒ったのは何年振りだろう?などと考えつつも勢いは止まらなかった。電話口の係の女性はさぞ困ったことだろう。「絶対クレーマーと思われているよなあ。」と憤慨しつつ電話を切った。そしてそのあと冷静に考えると、私はいつも使う4ケタのパスワードを二つ持っていたのだ。そしていつも使うはずのとは別のパスワードを一生懸命入れていたわけである。

というわけで、モンスターの大部分は普通の人である、ということを私は主張したわけだが、モンスター化しやすい一定の人々もいるであろうことも確かである。それらの人々は被害的になり易く、ある種のパーソナリティ障害を備えている可能性があるだろう。そしてそれらの人々の多くは、本書で論じている自己愛パーソナリティに属するのである。

2017年3月4日土曜日

ナルな人たち 書き直し ④

 筆者はもう老境にあるが、一つこの年になって出来ることがある。それは過去半世紀を振り返り、様々な日本社会の変化を実体験をもとに論じることが出来ることだ。それをもとに言えば、日本人のサービス精神は、少なくとも外見上は以前にも増してはっ帰されている印象を受ける。しかしそれは日本人の精神がより高められ、博愛的になったことを意味する分けではないであろう。むしろサービスそのものがマニュアル化され、規格化されているのである。コンビニを訪れれば「いらっしゃいませ、こんにちは」というちょっとおかしな声を常にかけられる。レジの店員は余裕がある
ときは最敬礼といった感じで客を迎える。駅を利用すると改札の出口で、「御利用ありがとうございました。」と声をかけられる。やがて気がつくのである。これはマーケティングの戦略なのだ、と。そして明らかに客は丁寧な応対をするサービスを利用するのである。そして同時に私たちは年々向上していくおもてなしのレベルにすぐ慣れていく。レジで客の顔をあまり見ずに、挨拶の声も小さい店員にであうと、若干の不快感を覚える。「こちらはお客様なのに・・・」少し虫の居所が悪い客なら、「その態度はナンだ!」と怒り出すかもしれない。半世紀前の日本であったら当たり前の客対応が今は客の怒りを生む様になってきている。
普通の人に生じるモンスター化

ここで再び問うてみたい。モンスターたちは、深刻な自己愛の病理や、未熟なパーソナリティを有した人たちなのだろうか? 本書では、私は彼らを、一種の自己愛者ととらえている。しかしそれは彼が社会のある状況下で、一時期的にそうなる、という意味である。そのことは、モンスターと言われる人たちを観察してみるとわかる。
 モンスターと言われる人々の多くは、曲がりなりにも普通の社会人として機能している人たちだ。
学校で教師の悩みの種となっているモンスターペアレントたちは、家庭でも仕事場でも有能さを発揮し、夫婦仲も良好であることが多い。だから二人で足並みをそろえて学校に要求をし、批判をする。少なくとも社会適応ができているのだ。学校側を困惑させる例として本などに描かれるモンスター・ペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子ども思い」で「熱心な」親で通っている。家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はないのが普通だ。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのである。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしている以上、彼らを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。更に言えば、私の印象では、モンスター化する人たちは性格的にも特に特徴となる点のない、私たちの中にもたくさん存在するような人々なのである。クライエントとして店や企業と関わったり、子どもの通っている学校側と対峙したりする状況で、あたかもスイッチが入ったかのようにクレームを付け出す。かといって彼らが社会のあらゆるサービスにクレームを附けるわけではない。それどころか彼らは職場では、彼ら自身が顧客からのクレーム対応に追われているかもしれないのだ。、彼らは「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているようであるp.68 l.8l.16
学生運動の闘士たち

老境の筆者が身を持って経験し、若者に語ることが出来るのが、学生運動だ。一九六〇年代、七〇年代にわが国だけでなく、世界各地で学生運動が生じたが、あれも一種のモンスターか現象と言えるだろう。普段はおとなしい、ごく普通の学生が教授に向かって信じられないほどの怒りや攻撃性を向ける。そのシーンだけを見たら、当時の学生たちのナルシシストぶりに驚くだろう。敬意を表し、その教えに従うべき教師を、逆に威嚇し恫喝する。それは強烈な快感と、同時に深刻な後ろめたさを伴う行為だったに違いない。大学を封鎖し、東大のように前代未聞の入学試験注視の事態にまで陥った例もある。1969年のことだ。その学生運動の一翼を担った人々はいわゆる団塊の世代。いわゆる団塊の世代だが、彼らはもう職場での退職の時期を次々と迎えている。彼らが職場でもクレーマーぶりを発揮して上司を困られたという話を聞かない。それどころか彼らは管理者の側になり、あるいは経営者として様々な要求やクレームを処理する立場に立ってきた。

2017年3月3日金曜日

ナルな人たち 書き直し ③

クレイマーからの電話はしばしば、延々と続く。カスタマー対応の方はそれをこちらから切ってはいけないというルールをどこからか教えられて、通常の仕事を犠牲にしてまで聞き続ける。ひたすら謝罪のみの対応だから、クレイマーの要求はますますエスカレートし、口調も攻撃的になっていく。私たちは小さい頃先生や親から叱責されたことが一度ならずあるだろう。その時は気持ちが落ち込んだり泣き出したり、結構辛い体験をすることになるが、いい大人がこれを体験することになると、かなり辛いことになる。一種のトラウマになってもおかしくない。
私はアメリカはかなり暴力がはびこっている国だと思うが、それだけにその暴力を止めようとする装置も整っている。一定の大きさの組織や建物にはセキュリティがいる。まあ警備員といったところか。一定の大きさの病院やクリニックで何かあったらすぐに駆けつけてくれるセキュリティスタッフがいないということがない。そして誰かが暴力的になったり、声を荒げたとたんにセキュリティが呼ばれて登場するということになる。言葉の暴力、暴言はある意味でちゃんと暴力としてカウントされることになる。
わが国では実際に暴力が振るわれる事案は、おそらくアメリカよりずっと少ないが、そのためにそれを処理する装置もずっと未分化だ。そしてそれは小さな暴力、暴言の深刻さを問わずに放置するということに繋がる。
そのような日米の文化の違いを感じるような体験があった。

「お・も・て・な・し」は受けて当然

私はモンスター化の問題は、日本人のサービス精神とも深く関係していると思う。
私は日本にいて思うのだが、日本人の顧客に対する扱いはかなり丁重である。私自身が日本人だから、当たり前のことだと思うのだが、顧客のニーズに合わせて商品を改善しようという意図が欧米では極めて希薄だという印象を持つ。私が最初に暮らした外国はフランスだったが、そこで精神科の所見用紙を見た時のショックを忘れない。レターヘッド以外は真っ白な白紙なのである。あとは書く人が適当に行間隔を取って書きなさい、という態度だが、書く身になってこれほど不便なことはない。罫線くらいつけてくれてもいいはずだろう?字はグニャグニャ曲がってとても整然となんて書けない。地下鉄に乗っても電車が止まるところはバラバラで乗る人のことを考えていない。電車は駅に近づいても、次の駅名を告げない。もう30年も前のことだから今は変わったかもしれないが、利用者のことを考えないという程度は徹底していた。それとの比較で言えば、利用する側のことを徹底的に考え、サービスする日本社会の特徴は、私たちには普通でも、世界のレベルでは飛びぬけているらしい。

2017年3月2日木曜日

ナルな人たち 書き直し ②

さてグループの凝集性を生むこれらの3つの条件、すなわち①利害の共有、②仮想敵の存在、③グループの閉鎖性)はそのまま、いじめの生まれる土壌を提供していることになる。これは容易に想像できることだ。そのグループメンバーの一人ひとりが、ある日突然三つの条件を満たすような存在になってしまいかねないからだ。昨日まで仲間と利害を共有し、一緒の敵を憎しみ、それ以外とは交渉を持たなかった人がある日グループから抜けると言い出した。どうやらグループのやり方や雰囲気にそぐわないらしい。たちまち理解の共有は成り立たなくなり、むしろグループにとっての敵になりかねない。そしてどこか外のグループに加担する「裏切り者」にされてしまう可能性がある。そしてここからが肝心なのだが、グループの凝集性は、その仲間はずれを人為的に作り上げてしまう可能性がある。これがいじめの成立である。
 もちろんここで必ず問われなくてはならない問題がある。なぜ人為的にでも仲間はずれができるのだろうか? 考えてみよう。グループの凝集性は、それをより高める方向に働く。そして仲間はずれの存在はそれを間違いなく高める。もちろん仲間を一人なくすことはグループにとっての痛手となりかねない。これまで仲間だったメンバー自身が、それによりどれほどの精神的なトラウマやダメージを蒙るかを考えると容易に出来ることではない。しかしそれによる凝集性の高まりがその痛手を上回るとしたら。少なくともそのグループのリーダーがそのように感じ、かつ人
の痛みを感じない無慈悲なタイプだったら?あるいはそのリーダーが被害妄想が強く、グループを裏切る可能性のあるメンバーの存在に極めて敏感になっていたら・・・。そう、そのグループのリーダーの性質は実はここで非常に重要になってくる。
リーダーが温厚で面倒見のいい性格であれば、いじめも起きにくいだろう。しかしリーダーが無慈悲で被害的で、かつサディスティックだったら、あるいは先述した通り厚皮型やサイコパス的なナルシシストの場合は、攻撃の対象をすぐに見つけ出し、周囲を扇動していじめに向かわせる。そこで上記の二番目の条件(仮想敵の存在)が成立し、排除の力学」から、いじめの構造は簡単に作り出されてしまう。p.78 l.10l.12
この排除の力学が働く時は、メンバーは極めて敏感になる。いまや一人のメンバーが攻撃の対象になりかかっている。どのように自分は振舞うべきか? ただ一つ明確なのは、そのリーダーに向かって「皆で仲良くやりましょうよ?」「一人だけをなかはまズレにするのはよくありません」と意見することは、たちまち自分を排除の対象に仕立て上げてしまう行為でもあるということだ。
いじめの被害にあった人たちが多く語るのは、一番恐ろしいのは、その集団から外されてしまうことだという。そのためにいじめを甘んじて受け、また誰かの受けているいじめを傍観したり、いじめに加担したりすることになるのである。
この「排除の力学」は、実際には排除が行われていないときも、常に作動し続け
ることになる。仲間はずれは何がきっかけで生じるかわからない。仲間から少しでも外れた言動はそのままその根拠になりかねない。仲間の集まりに参加しないこと、同じものを身に着けないこと、同じ意見を言わないこと。それはことごとく排除の力学を作動させることに繋がるのだ。
 ここで私は自分自身の異文化体験について言及せざるを得ない。というのも欧米の社会に比べて日本の社会はこの凝集性を重んじるという点でやはりかなり特徴的であるといわざるを得ないからだ。ただし私は近隣のアジア権での生活の経験はないので、例えば中国や韓国の社会と比較して論じることは出来ないことはあらかじめお断りしたい。
ある集団に属すると、そこですべきことがいつの間にか決まっていて、それに従わないことで恥をかき、仲間から疎外されるという現象はわが国の社会のいたるところで見られる。その最初の段階はすでに幼稚園に始る。皆がおそろいの制服を着て、同じかばんを持ち、同じ帽子をかぶる。それに従わないことは考えられないことであり、もちろんいけないことである。いかに他の人と同じに振舞うかは、いかに社会生活を学ぶか、ということと同義なのだ。
私は今でも小学校に入ったころのことを思い出す。その頃はランドセルは黒と赤かありえなかった。それ以外の色のランドセルもあるにはあったが、ピンクや黄色の目立つこと。私は小学校のクラスで、一人ピンクのランドセルを背負っていた女の子と、黄色のランドセルを背負っていた子を名前も顔もしっかり思い出すことが出来る。それほど人と違っているということは強烈な印象を与えるのである。ちなみに私の小学校当時はもちろんそんなことで仲間はずれになることはなかったが。
ちなみに最近のネットの宣伝を見ると、ランドセルはその気になればネット上でいくらでもカスタマイズでき、好きな色や飾りを選んで自分独自のオリジナルなランドセルを作ることができるらしい。しかしそうなると、そのうち赤や黒の既成のランドセルを背負っていることが目立つことになりかねない。世の中でいじめの種は尽きないのである。
近頃のお母さんたちは、子供に持たせるお弁当にも特別に気を使うそうだ。お弁当にちょっと変わったおかずを入れることでからかわれていじめの対象になるのではないか?それよりも最近非常に気になるのが、小学校入学時に、母親たちが大変なストレスを抱えるということが私の診察室で語られるのである。いうまでもなくPTAのことだ。入学するといつの間にかPTAに参加することになっている。どこかで署名したらしい。すると役員にでもなると念のうち何十日も学校での活動に参加しなくてはならない。そしてそれを外れることはそれこそ様々な不利益を蒙るのではないかという懸念を生む。何しろ大事な子供への影響が心配になる・・・・。小学校入学は子供にとっては画一性に従うことを重んじる日本社会へのイニシエーションであり、母親にとっても、おそらくそれへの第2のイニシエーションになるのである。
それに比べるとアメリカの小学校のなんとおおらかな事か。皮膚の色も髪の色も違う子供たちが思い思いの服装で学校に集う。制服などありえない。ちなみに小学校だけでなく、ミドルスクールでもハイスクールでも、生徒たちは決まっては着古したスラックスかジーンズか何かをはいてくる。(スカートの類は全く見かけない。せいぜいキュロット程度か。)どんなお弁当かと除くと、ブラウンバックにスナック菓子の袋と缶コーラが入っているだけといった感じだ。何かに合わせるにも、その基準がなく、あえて言えば一人ひとりが好きな格好をする、という基準があるということか。

2017年3月1日水曜日

ナルな人たち 書き直し ①

以前ここに書いていた「ナルな人たち」が、難産状態である。いろいろ問題が生じている。そこで部分的に書き直しをすることになった。

いじめが生じるメカニズム

いじめは、おそらく集団が存在するところには何らかの形で生じる運命にあるにしても、一九八〇年代頃より、わが国ではしばしば問題にされるようになった。それはなぜだろう? これもモンスター現象と同様の社会的な背景が関係しているのだろうか?
本書は、もちろんいじめに関する本ではないが、私自身のこの問題についての立場を簡単に示しておきたい。というのも臨床の場面でもそのほかの社会的な関係においても、いじめに類する現象は常に発生し、多くの犠牲者を生み出しているからである。
 最初に述べたいのは、いじめはその程度はともかくも、集団が成立する際には必ず多かれ少なかれ発生するものであると考える。ただし動物社会でのいじめは少なくとも人間社会のそれと同じようには生じないと言われる(正高、2007)ところを見るとかなり人間社会に特有な現象なのであろう。
正高信男 (2007)「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」~いじめの起源と芽生え~ 講談社ブルーバックス    
人間は極めて社会的な生き物である。人という群れに属することで安心感を得る。群れから疎外されることはそれだけで恐ろしい。これは学校に通っている年代の私のクライエントがしばしば語ってくれることである。最近の中高生はいつもスマホを手放さないように見えるが、それを媒介にしてクラスメートや友達により形成される集団から外されないように必死なのだ。
 さて私たちが所属するグループ、群れには凝集性、一体感といったものがある。その集団の中を流れる「空気」の濃さ、と言ってもいい。そこで皆が考え、皆が前提にし、従うことがおのずと決まり、それを共有することで、一体感が生まれる。「みんなで優勝しよう!」とか「奴らを叩きのめしてやろう!」とか「○○カープ最高!」とかいう感じだ。それに賛成することで、そのグループに受け入れられ、所属している実感が生まれる。それは心地よく、興奮を感じさせるものだ。そしてそれが強ければ強いほど、そこから外れることが難しくなる。「えそれはちょっと・・・・」とか「それは僕は賛成しないな」とかが言いにくくなる。それを口にするとその集団を流れる熱狂を一気に冷まし、そこに気まずさやシラケを生む。そしてそのグループから一気に排除される可能性を生むのだ。それを「排除の力学」と呼ぶことにしよう。私が前著『恥と自己愛トラウマ』でも論じたことである。この「排除の力学」は、私がいじめが生じる決定的な要素と考えていることだ。
排除の力学を支える要素を私は3つ考える。それらは ① 利害の共有、② 仮想敵の存在、③ グループの閉鎖性、である。一つ一つ説明しよう。
理解の共有(①)は一番わかりやすいだろう。グループがある球団やアイドルのファンで構成されているとしよう。「○○最高!」 「○○を応援しよう!」で一気に盛り上がる。それらのスローガンや掛け声を繰り返すことで、グループの熱気を一気に盛り上げることが出来る。例えば球場の応援団席は贔屓のチームのカラーや、そのユニフォームを着た人でいっぱいになる。するとそこにライバルチームのユニフォームを身に着けた人が紛れ込むのは自殺行為だろう。ボコボコニされてしまう可能性があるからだ。
さて②の仮想敵の存在は、この①といわば対になっているような条件である。○○最高!は,「××(○○のライバルチーム)をやっつけろ!」によってもまとまるのだ。またとくに○○が存在しなくても、××だけが存在することで十分にグループの凝集性は盛り上がる。その場合○○はそのグループが最初から共有している属性ということになる。「○○国民」、「○○県民」、「○○民族」ということでいいだろう。
③のグループの閉鎖性については、そのグループのメンバーがどれほどほかのグループとの接触がなかったり、外部からの情報が遮断されているかを意味する。考えてもみよう。メンバーがそのグループを離れては生きていけなかったり、そのグループを離れることが想像すらできなかったら? そのグループは家族かもしれないし、国民かもしれないし、宗教かもしれない。グループ以外の存在の仕方を最初から前提にできないのであれば、そのグループと運命を共にするしかない。それは間違いなくグループの凝集性を高めるのである。