2012年9月30日日曜日

第7章 解離現象の不思議


何より不思議な交代人格の存在

手の込んだ実験を行うことなく臨床的に確かめられる驚くべき事実、それは次のような現象が人の心に生じうるということである。
面接者がある患者Aさんと話し始めると、それとは異なる人格Bさんが、Aさんに入れ替わって出現する。Bさんは全く異なった話し方、物腰、記憶をもち、しばしば自分はAさんを通してその体験を見ていると証言するのだ。
   私たちは日常生活の上でも不思議な現象を目にすることが多い。テレビでも超常現象やマジックの実演を目にすることがたびたびあり、その時は驚きの声をあげながら画面に見入る。しかし私たちは通常そのような体験を、すぐに忘れてしまう傾向にある。ありえないこと、何かの間違いとして頭の中で処理してしまうことで、毎日が生きやすくなるからだ。人格の交代現象を目にしても、多くの臨床家はそれを深く考えなかったり、追求しなかったりする。そしてここから臨床家は二種類に分かれることになる。人格交代という現象を正面から考える人々と、そうしない人々。
   さてこの種の人格交代現象が実際に起きることを体験している私は、そこから思考を開始するしかないが、これは私たちが持っている心の常識を根本的に変える可能性がある。このような現象を起こしうるポテンシャルを持つものとして脳を捉えなおさざるを得なくなるのだ。
 ただしこの解離現象をとらえる道筋は、これまでの本書の議論の流れの上に沿ったものだ。これまで意図的な行動、創造活動、夢、という順番で論じてきたのは、一貫して脳におけるニューラルネットワークの自律的な活動がそれらにどのように反映されているか、という問題である。私たちが能動的に活動を行っているという感覚が実は錯覚である、という議論なのだ。とすると意図的な行動→創造活動→夢と来てその先にあるのが、私たちの中に自分以外の自律的な他者をもつ、という体験になる。私たちはその他者の思考や行動に対してh受身的にならざるを得ない。それが依然として自分の脳の中で生じているのに、である。
  解離現象による人格の生成も、やはりそれを生み出すのはニューラルネットワークであるが、そこでの自律的な活動についてはともかく、もう一つの意識が生まれるとはいったいどのようなことなのだろうか? ニューラルネットワークとは、改めて言うが神経細胞(ニューロン)とその間をつなぐ神経線維により形成される網目である。そして脳という巨大なニューラルネットワークは、おそらくはいくつかのサブ・ネットワークに別れている可能性がある。例えば私たちは右脳と左脳のそれぞれが意識を持ちうることを示唆したが、それが一つの例である。実際には左右にはっきり分かれはしなくともいくつかのパターンが存在し、それぞれが意識を持ちうるのであろう。

自律性のきわみとしての人格

ネットワークの自立性ということを述べたが、別人格の成立は、その自律性の究極の形と言っていいであろう。そしてそもそも一つの組織はそれが部分として切り離されるとそれが自律性を発揮するという例は少なくない。私がその一つとしてよくあげるのが、心筋細胞である。心臓はその全体が一つのリズムで拍動している。しかし心臓をいくつかの部分に切り分けると、その部分が勝手なリズムでの拍動を行い始める。そして心筋細胞を一つ一つ切り離し、顕微鏡の下でのぞくと、それ自体が拍動をしていることが観察される。ニューラルネットワークも、その一部が他から切り離されることで、一つの独立した意識を持つということは少なくない。その一つの具体的な例が、先ほど言及し、前書でも紹介した、左右半球が別々の心を持つという離断脳の実験である。
 ところで脳=ニューラルネットワークは、一つ以上の意識の存在を可能にするほどのキャパシティを持っているのだろうか? これについては特に問題はない。考えてみよう。ネズミは意識を持つであろうか? おそらく。私たちが持つ意識ほど洗練されてはいないにしても「自分」という感覚はあるであろう。そしてそれを構成しているのは、おそらく人間の脳に比べてはるかに少ない数のニューロンからなる神経ネットワークなのである。人間の脳のサイズを考えたら、そこに多数の意識が存在していても少しもおかしくないことになる。
これらの説明を聞いて次のように考える読者も多いであろう。「それではその巨大なニューラルネットワークがいくつかに分割されることでいくつかの異なる人格が成立するのではないか?」ところが異なる人格が脳の別々の場所で成立しているという形をとるわけではない。fMRIなどでいくつかの異なる人格の際の脳の活動を調べても、人格により脳の別々の場所が活動を示すというわけではないのだ。むしろそれぞれの人格は脳全体のネット枠の幾つかの独立した興奮のパターンを形成する、と考えるべきである。そしてそれぞれのパターンどうしは複雑に入り組んでいるために、脳のどこかに局在するという形をとらないのである。
 それを説明するために次のような単純化した図式を考えてみる。脳の配線マップに極めて簡略化したネットワークA(赤で示す)を載せてみる。そして人格Aの心身の活動は、このネットワークを基盤に起きていると考えよう。つまりAが感じ、思い、行動する際、だいたいこのネットワークAを含んだ神経線維が興奮するのだ。そして次にB(黄緑で示す)を考える。こちらは交代人格Bの際によく用いられるネットワークであるとする。図でこのABを微妙にずらして描いているのは、両者が共通した配線を持っていないということを表現しているからである。すなわち同じ音楽を聴き、同じ動作を行うにしても、ABは異なった神経回路を用いることになる。DIDでは非常に多くの場合、ABという二つの交代人格は、まったく異なる感情表現をし、まったく異なる話し方をし、まったく異なる筆跡を示す。人間として生活するうえでまったく異なる二つのセットのネットワークを有しているかのようだ。
 なぜ解離性同一性障害においてABという異なる配線のセットが成立したかは難しい問題であるが、ある特殊な状況で、Aが一つの体験を持つことができなくなった際に、Bが成立し(あるいは何らかの形ですでに成立していて)、そちらの方にスイッチが切り替わるという事態が起きた、としか表現できないであろう。もちろんその詳しい機序は明らかではない。

 

2012年9月29日土曜日

第6章 夢と脳科学―心理士への教訓

 教訓どころか、私はこの章を書くことで心理士の心に悪い影響を与えているのかもしれない。夢の素材はランダムだなどと言っているからだ。来談者の夢の報告を聞いてその象徴的な意味を考えることにエネルギーを注いでいる臨床家にとっては全くもって失礼な話である。
ただし私は夢というよりは心の在り方一般についてのランダム性を考えている。来談者の何気ない一言、ふるまいの一つ一つに意味を見出そうという立場を私は取らない。もちろんそれがある程度透けて見える場合には話は別である。そのような一言、ふるまいだってもちろんあり、患者にそれを見る手助けをすることは、心理療法の醍醐味の一つである。)

 これまでも述べたように、意識的な活動は無意識=ニューラルネットワークの自律性を反映しているというところがある。それに意味が与えられるのは言葉が出てきた後、行動を起こした後というニュアンスがあるのだ。意識がその言葉や行動を、自分が自発的に行ったものと錯覚して、その理由づけ、後付けをする。

ただしここで脳のさいころの転がし方にはやはりパターンとか癖があることも無視できない。おそらく治療の一つの目標は、それを来談者と一緒に探るということかもしれない。そのためには来談者もその行動が自分のもの、という感覚をいったん捨てて、他人事のように考えるとよい。脳の観察を治療者と行うのだ。そしてそれは夢についてもいえるのである。
私が信頼する分析家の一人Dr.Gabbardの最近の精神分析のテクストにも、夢解釈の技法についての言及がある。それによれば患者が夢について報告した際に、それに対する最も有用なアプローチは、「その夢について思いつくことを仰ってください」であるということだ。つまり夢そのものに対する患者の思考について聞くことなく、夢の意味することを知っているかのように語るべきではないというわけである。 
以上のことから私が強調したいのは、脳科学的に夢の在り方を考えた場合、少なくともその意味を探ることが来談者の心を深堀りしていく、という単純なものではないということである。夢は脳の自律的な活動の結果であり、その成立過程にはあまりにわからないことが多い。もしかしたらフロイトが考えたように、抑圧された無意識内容が形を変えたものかもしれない。しかしそれにしてはその無意識内容の解釈の方法はあまりにも多く、おそらく治療者の数ほどの解釈が成り立ってしまう。そしてホブソンらの説が正しいのであれば、少なくとも夢の素材そのものはかなり蓋然性があり、偶発的なものらしい。すると素材そのものよりは、それをもとにして出来上がった内容にこそ無意識=脳の神秘がある。そしてその仕組みはほとんどわかっていない。
 だから夢の解釈を試みることは、例えば曲から、作品からその人の無意識を探ろうという試みに似ている。人はそれに関心があるだろうか?むしろ曲を、絵画をそのものとしてとらえ、その価値を見出すだろう。曲にしろ絵画にしろ、作者を離れて皆のものになるというところがある。作品は未知の力がその作者の脳を借りて生まれたというニュアンスがある。それのもとになった作者の無意識を探るということには人はあまり関心を示さないだろう。
私は来談者の語る夢に意味を見出すべきではないと言っているわけではない。ただし夢はそこに隠された意味を追求するにはあまり適していないと考える。夢は脳が描いた一種の作品であり、むしろそれをどう感じるか、そこから何を連想するかなのである。その意味で夢の扱い方はロールシャッハ的と言えるだろうか?
 ある来談者が、すでに何年か前に亡くなった母親が夢に出てきたと報告する。その夢の中で彼女は母親を罵倒していたという。穏やかな関係にあった母親を罵倒している自分を夢で見て、その来談者は心配していた。「私の中に母親への怒りや憎しみがどこかにあったということでしょうか?」
そのような夢に対する対応は、次のようにあるべきだろう。「お母さんを罵倒している夢をたまたま見てしまったんですね。その夢がどこから来たかは、あまり気にする必要はないと思いますが、そのような夢を見たあなたの反応はいかがですか?」
それに対して彼女はこう答えるだろう。「いや、実際に私は母をそんなに責めたことなどなかったし、そうしようと思ったことも思い出せません。」 「それじゃびっくりなさったでしょうね。現実とかけ離れた夢も人は見るものです。でも夢の中であってもお母さんを罵倒したことがそこまで後ろめたいとしたら、それはどういうことでしょうね。だって親子の間の言い合いなんて、普通にありませんか?」
読者はあまりに当り前で表面的なこの対応に失望するかもしれないが、夢の生成過程がほとんどわかっていない以上このくらいの対応しかできないだろう。
夢は意味がないとあまり強調し過ぎないように、最後に一つコメントを付け加えたい。夢の内容の中には、それがフラッシュバックの色彩を持つものがある。その場合はむしろそれをフラッシュバックの一種を扱う必要が生じる。繰り返し夢に訪れる外傷的なシーンは、それ自体が過去に生じたトラウマの反映である可能性があり、その内容を扱う治療的な必然性があると考えるべきであろう。しかしその場合も、Dr.Gabbardの示唆の通り、その夢の内容についての患者の反応を最初に尋ねる必要がある。その夢に対する同様や嫌悪感、恐怖などがその外傷性を間接的に示す場合が少なくないからである。

2012年9月28日金曜日

第6章 夢と脳科学

  今朝は壮大な夢を見て目が覚めた・・・。起きてしばらくはそのパノラマのように展開する内容を思い出し、そこに暗示された様々な真理(のごとく感じられるもの)の奥深さに胸打たれ、なんとすごいものを見たのだろう?と呆然としている。そのうち・・・・感動の記憶を残したまま細部がどんどん抜け落ちていく。そのうち、あれは何だったんだろう、と首をかしげながら布団から起き上がる。

夢の過程は、私たちの精神活動の中で最も複雑なもののひとつである。その内容は奇抜で、時には意味シンで暗示的で、時にはグロレスクでまったくナンセンスである。これこそがネットワークの自律性のひとつの典型的な表れといえるのだ。しかし心の臨床では、やはり夢は別格の扱いを受けてしかるべきであろう。そこでここに新たに章を設けて、夢の問題について論じたい。
 フロイトが作り上げた精神分析理論はそれが実はきわめて秩序だった意味の生成過程であるという前提の上に成り立っていた。それ以来精神分析家の多くが、そしておそらくそれ以上に多くの患者が、夢の内容から意味を見出そうとして頭を悩ませてきた。しかし夢の理論がフロイト以来長足の進歩を遂げたということを私たちは聞かない。たとえば葉巻という夢の内容が何を最も象徴しているかについての実証的な研究・・・・などというものは存在しないのである。
 そのような夢の研究の歴史に、一つのセンセーショナルな影響を与えたのが、ハーバード大学のマッカーリーとホブソンの提唱した「賦活化・生成仮説」というものである。1977年の説であるから、35年前ということになり、もう相当古い説だ。実はこれは前書「脳科学と心の臨床」に短い形で記載してあるので少し引用しよう。

アラン・ホブソンというハーバードの研究者は,1970年代に,夢に関する独自の仮説を提出した。それが賦活化・生成仮説activation-synthesis hypothesisと呼ばれるものであった。それは,REM睡眠中は主として脳幹からPGO波といわれるパルスがランダムに脳を活性化し,それが夢と関係しているのではないかという説である。脳はいわば自分自身を刺激してさまざまなイメージを生み出し,それをつなげる形でストーリーを作る。それが夢であり,その具体的な素材には特に象徴的な意味はないというわけである。
 ホブソンはまた,睡眠中の神経伝達物質の切り替わりにも注目した。覚醒時に活躍する神経伝達物質であるノルエピネフリンとセロトニンは,REM睡眠中はアセチルコリンへとスイッチすることで,運動神経の信号は遮断されることになり,体は動けなくなる。またノルエピネフリンとセロトニンは理性的な判断や記憶に欠かせないが,それが遮断されることで夢はあれだけ荒唐無稽で,しかもなかなか記憶を残すことができないという。 この仮説は少なくともそれまで多くの人に信じられていたフロイトの仮説に対する正面切ったアンチテーゼということができる(Hobson, 2002)。

 以上のホブソンの理論にはあまり海馬の話は出てこないが,最近の夢理論は,より海馬に焦点を当てたものとなっている。海馬ではさまざまな昼間の体験の記憶が,鋳型に記されて保存されているという事情を[前書(脳科学と心の臨床)で]説明したが,夢の際は日中の記憶のさまざまな組み換えがなされ,それが夢に反映しているらしい。池谷裕二氏は海馬についての第一線での研究者であるが,彼によれば夢では海馬が中心となって,日中の体験を引き出し,その断片をでたらめに組み合わせているということである(池谷他,2002)。たとえば断片的な記憶が五つあり,それが時系列的にはA,B,C,D,Eという順番で起きたとする。すると夢ではAにはCを,DにはBを,というふうにつなげて,そこに新しい意味が生まれるかを検討する。そしてその間は外界からの情報を一切遮断する必要があり,またその内容を実行してしまわないように,筋肉も動かないほうがよく,そのために感覚入力の遮断や,抗重力筋の麻痺は,どちらもREM期の特徴となっているのだ。
ただしREMは記憶の定着に役に立つという説に関しては,逆にREMを抑制する抗うつ剤を使っても記憶が衰えないことも知られており,かんたんに結論は出ないようである。 REM期のもう一つの特徴として,前頭葉の機能が低下することで先述の,理性的,批判的思考の抑制が生じるということもあげられる。(脳科学と心の臨床、P132

賦活化・生成仮説について少し詳しく説明したわけであるが、たとえばネットで検索をしてみても、夢に関する著書を読んでも、このホブソン達の説が主流になっているかといえばそうではない。夢を分析可能なものとみなし、そこに様々な意味を見いだすという臨床活動を続けている人たちも、まだ沢山いるだろう。そもそも夢の分析を中心とするユング派の精神分析的治療が成り立っているということ自体がその証である。
 夢の理論について私自身が考えていることは、ホブソンの説とフロイトの説のどちらでもあって、どちらでもないようなところがある。ホブソンの説のように、夢の素材は確かにランダム性を持つかもしれない。しかし驚くのはそれをもとにストーリーを組み上げる脳の自律性なのである。そこにはフロイトが論じた様々なメカニズムが働いている可能性があるが、それを明らかにするだけの学問的な蓄積を私たちは持っていない。とにかく何らかのきわめて複雑で精巧なメカニズムがあるから、私たちはその結果として生まれる科学的な発見や芸術的な創造物に感動するのである。
 夢の素材がランダムであるということは、それ自身に深い意味を見出すことはあまりできないということだ。例えば私の見る夢の中には昔住んでいた田舎の雰囲気も出てくるし、私が小さい頃の母親も出てくる。家人が出てくることもある。今日の夢になぜ父親が出てこず、私がよく知る患者の顔が浮かばなかったかに深い理由などない。たまたまそれらがピックアップされたのだ。しかしそれが極めて入りくんだストーリーラインの中に組み込まれて仕上がってくる。よくぞこんな素材でそこまで、というような緻密さや情緒的な説得力なのだ。そしてそのストーリーラインを作っているのは脳の活動である。その合成の力こそ驚くべきである。
 私が述べたこの視点と、フロイトの精神分析的な視点との違いをおわかりだろうか? フロイトは、夢が無意識的な願望などを極めて上手く包み隠すことに驚いた。そしてそこにいくつかのメカニズムを考えた。それらが(1)圧縮の作業、(2)移動の作業、(3)戯曲化、(4)理解可能にするための整理ないしは解釈、と言われるものである。そして最も重要な意味を持つのは、その素材なのである。なぜならそれが抑圧され、夢によって形を変えて表れることがその人の病理を表すのであるから。しかし私の立場は、本来は無意識内容というよりはランダム的に与えられた素材を使ってストーリーを紡ぎあげるメカニズムこそが驚くべきであり、たとえ夢がいかに意味深長でも、その素材の持つ意味を追求することには限界があるというものだ。なぜならそこには根本にはランダム性、カオス的な性質が横たわっているからである。
 ところで前章ではニューラルネットワークの創造的な課程について述べたが、この夢の課程に特徴的なのは、意識の受身的な性質がさらに明らかだということである。私たちは夢に圧倒され、一大スペクタクルを見たような気がする。ただし少なくとも起きて5分程度までは。そのうちその圧倒的な印象も、その内容も霞のように消えていくのが普通だからだ。しかしともかくも私たちは完全に受け手であり、観客の側に立たされる。それは「いいメロディーが思い浮かんだ」「いいストーリーラインを思いついた」という想像プロセスに多少なりとも見られる能動感が既になくなっている。
ただし脳の側の自律性ということについてその精巧さを強調した後に言うのも矛盾しているようだが、その「質」については疑問である場合も少なくない。仮に特殊な機材を装着することで、人は30分の間のレム睡眠の継続時間に起きたス―トーリーラインを完璧に再構成でき、それを映画に出来たとしよう。それを見た人の評価はきっと散々だろう。夢の話の展開は突拍子もなく、ちぐはぐでナンセンスである。その夢の内容に感動を覚える、というのはそのクオリティーの高さというよりは、それを見る脳が同時に情緒的な反応を起こしやすいという条件化にあるからであろう。だから覚醒した直後はその夢の内容に感動して泣くようなことがあっても、5分ほどしてみると、ケロッとして「オレはなんであんなことに泣いていたんだろう?」ということになる。
 以上のことから一つの結論が得られはしないだろうか?意識による介助のない創造過程は十分な彫琢が得られない可能性があると言うことである。ちょうどどんなに感動的な映画でも、個々のシーンを繋げる編集の作業が欠かせないのと同じように。脳の自動的な課程はちょうど長い糸が紡ぎ出されるだけであり、それを織って布にしていくのは意識による介入という可能性がある。

2012年9月27日木曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳-心理士への教訓

無意識=ニューラルネットワークに畏敬の念を持つべし

私の個人的な体験を書くならば、脳をニューラルネットワークとして理解することは、私の心に対する見方を大きく変えてしまった。私は本来精神分析家であるが、精神分析的な人間観に不足していると感じられた部分、精神分析を学んでいるだけでは腑に落ちない問題の多くは、ニューラルネットワークモデルの中に畳み込むことができたと考えている。それはこのモデルを絶対視することではない。ニューラルネットワーク自体にわからないことが膨大にあるが、それを一つの図式として採用することで、精神分析に対する疑問をより相対化してとらえることが出来るようになったと考えている。
 心理士は患者の連想を通して様々なことを耳にするが、精神分析的な理解ではそれらがどのような無意識を表現しているかに常に注意を払うことになる。特にその内容が、その理由は不明ながらもある種の強いインパクトを与えたなら、それをかなり無理をしてまでももわかろうとする傾向があるし、わからないことに後ろめたさを感じるのだ。しかしネットワークの自律性が教えてくれるのは、私たちは無意識からのメッセージをあまり読み取ろうと頑張らなくてもいい、もう少しゆったり構えてもいい、ということだ。私たちの連想は、夢は、ある種の偶然性と何らかの必然性を伴って創造される。そこに最初から意味などないということも多いのである。
たとえとしてある作曲家の心に浮かんだメロディーを考える。その旋律が細部にわたって何かを象徴していると考えるだろうか、あるいはそれは重要だろうか?
 ところで冒頭に私は、さりげなく無意識=ニューラルネットワークと書いたのにお気づきであろう。私はこの章で「無意識的」という表現は何度か用いているが、「無意識」という用語は避けてきている。「無意識的」、というと「気がつかないうちに」、という口語的な表現ということで済まされるが、「無意識」となると精神分析の概念になってきてしまうので、混乱を避ける意味でもこれまでは用いていなかったのだ。
 では改めて、無意識とニューラルネットワークとの関係は?ニューラルネットワーク的には、この答えはある意味では簡素で、同時に複雑にならざるを得ない。簡素な考え方は、基本的にはニューラルネットワークの自律的な活動の一部の、意識化された部分を除くすべてが無意識ととらえるという方針だ。ただしこれは意識されない部分としての無意識である。これは「無意識的」という形容詞がつく活動を意味する。
 ところが精神分析的な「無意識」(こちらは「」付にしよう)は、フロイトのいわゆる「構造論的な無意識」ということになり、それがネットワーク内に存在するかどうかも不明になる。フロイトの考えた「無意識」は、そこに意識化したり直面したりすることに抵抗を覚えるような心の内容を抑圧しておく場所、という意味であるが、そのような場所がネットワーク上に存在するかと言えば、かなり難しい問題となる。抑圧を根拠づける理論もネットワーク的には今もって不明と言わざるを得ない。それよりは私は解離の概念を用いて説明することが多くなっているので、それは後の章を参照してほしい。
結局私が心理士に対して伝えたい教訓は以下のとおりである。無意識は広大でそこで様々な自律的な活動が生じているような場である。それを説明したり、推測したりするには、無意識はあまりに深淵であることが多い。ニューラルネットワーク的には、抑圧の機制をうまく説明できない以上、患者の症状や連想についてその解釈の作業にエネルギーを注ぐよりは、それらをそのまま受け止め、それについての連想を促し、それに共感することを旨とするべきであろう。それがいかなる洞察を導くとしても、それが最初のステップになるのである。

2012年9月26日水曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (5)


創造的な過程

  ネットワークの自立性の表れとして、創造的な活動について考えよう。
 例えばかのモーツァルトは、一人でいる時に頭に曲が浮かんでくるということがよくあり、それをコントロールすることが難しかったという。そしてそれらの曲は出てくるときは、勝手に自らを構成していくそうだ。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという。(Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。
  かつて人気作家の村上春樹が自分の創作の過程について語っているのを呼んだことがある。いまだにそのソースを探し当てられないでいるが、確かこんな話だった。<要典拠>
   「私にとっての創作は、頭の中の登場人物が勝手に動くのを見ているということです。それを私は見て、小説にしていくのです。そうするためには例えば一人スペインのどこかの宿屋に泊まり、どこからも連絡が来ないようにして小説を仕上げるのです。」
  正確な引用かどうかはともかく、彼の言葉から読み取れるのは次のようなことだ。創作活動のプロセスを見ればわかる通り、私たちが創り出している作品の主要部分は、実は脳によって自動的に作られているのである。それはネットワークの自律性の一つの典型例なのである。もちろんそこに意識の関与がまったくないというわけではない。村上春樹だって、頭の中の登場人物がまったく勝手に動くに任せているわけではないだろう。その流れを整理し、順序を整えて、人に受け入れやすくしているのは意識の働きであろう。その章立てを考えたり、漢字を一生懸命思い出そうとしているときは、前頭葉が活発に働いているはずだ。ただそのもとになる素材はすでに自立的に脳で作り上げられているのである。
   創造的な活動が、脳のどこの部分でどのように生じるかはわからない。私の知る限りそれに関する定説はまだない。ここからは私の想像であるが、これは脳の中の膨大な記憶情報の中から、それ自身の性質として自然に醸成されるものだと考える。少しわかりやすい例として、作曲を考えよう。ある長さのメロディーラインが浮かぶとき、それはこれまで記憶したことのあるメロディーの断片の繋ぎ合わせだったり、その変形だったりする。あるいはあるメロディーAの前半とメロディーBの後半の接合されたものかもしれない。その中である種の美的な価値を持った、つまりは美しいメロディーが、それ自身の持つ刺激のために意識野に浮かんでくる。人が聞いて素敵だというメロディーは、それ自身が私たちの快感中枢や扁桃核を刺激するのであろう。そしてメロディーラインの切断や接合は、それらの記憶の断片が存在すると考えられる大脳皮質の聴覚野で自然に、「勝手に」醸成されるのだ。
  ところでこのプロセスはタンパク質の合成のプロセスに似ているといってもいい。生命は酵素を必要とし、酵素はタンパク質から構成される。ではそのタンパク質は自然の中から、自然そのもののはたらきによって生まれてきた、という仮設を打ち出したのが、オパーリンという旧ソ連の科学者である。ここからはwikipedia の力を借りなくてはならない。<要典拠。またかよ。
 オパーリンの説を推し進めたのが、1953年、シカゴ大学ハロルド・ユーリーの研究室に属していたスタンリー・ミラーの行なった実験で、「ユーリー-ミラーの実験」として知られている。難しい話は省略するが、原始地球の大気組成を作り出し、そこに放電を起こし、アミノ酸が一週間後にアミノ酸が生じていることを示したという。
  もちろん脳の中で放電が起きたり、雷が落ちたりということは起きていないが、おそらく無数の知覚情報、思考内容の離散集合が自然に起きている可能性がある。これは仮説というよりは、こう考えないと説明できないものがあまりにも多いという意味では、半ば理論的に必然性を伴ったプロセスである。その典型が、夢の過程なのだ。

2012年9月25日火曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (4)

錯覚としての能動性への左脳の関与

 
錯覚による能動性ということに関して、私は前書(脳科学と心の臨床)で、「言 い訳する左脳」として記載している。左脳とは不思議なもので、自分がやったことを把握して、それに言い訳を付けるという役目を持つ。人は自分自身の行動を観察して、あるいは思い出して「それは~と思ったからです」と理由付けする能力を持っているのだ。これも一種の錯覚としての能動感といえるだろう。
 この左脳の性質については、分断脳による実験がそれを顕著に示す。分断脳とは、右脳と左脳をつなぐ脳梁が切断された状態をいう。そのような人に対して実験を行うと聞いて、読者は「左右の脳を切り離す、なんてずいぶんひどいことをするな」、と思うだろうが、癲癇発作の広がりを抑えるという治療的な目的でその様な手術が行われることがある。そのような人に実験に協力してもらうのだ。ちなみに分断脳の状態の人に会って話しても、驚くほどに普通の印象を持つはずだという。つくづく脳は不思議な臓器である。 
 さてその状態にある人の右脳にだけある種の指示を出す。これは決して難しいことではない。左側の視野は右脳に行くことがわかっているから、左の視野のみに指示を与える文字を見せればいいのである。そこにたとえば「立ち上がって歩きなさい」と書く。すると被験者は実際に立ち上がって歩き出す。そこで左脳に「なぜ歩き出したのですか?」と尋ねる。これは単に口で問えばいい。言語野のある左脳の方がその言葉を理解するからである。すると被験者は「ちょっと飲み物を取りに行きたかったのです」などと適当なことを答えることが知られている。左右の脳が切断された状態だから、左脳は右脳に「歩きなさい」という指示が出ていることは知らないはずである。ということは左脳は自分の行動を見てから理由づけをしていることになる。平然と、ごく自然にそれを行うのだ。
 もちろん通常の私たちの脳は左右がつながっている。しかしそれでも似たようなことが生じている可能性がある。右脳がある動機を持って行動を起こし、左脳はもっぱらそれを「自分は~という理由でそれをやったのだ」と理由づけをし、実際にそのように信じ込むということが生じていることが想定されるのである。たとえば右脳は仕事に退屈をして気晴らしのために立ち上がってあるこうとしたとしても、左脳は意味もなく立ち上がるだけでは体裁が悪いので、「飲み物を取りに行こうとしているのだ」と周囲にも、自分にも言い聞かせる、という風にである。
 さてこの分断脳の例が「能動的な体験は、実は脳が勝手にさいころを転がしているのだ」とどうつながるのか?それは行動が分断脳の例のようにたとえ「他の脳」に促されたものであっても、脳はそれを能動的なものと信じ込むという性質があることを示しているのだ。


能動的でも無意識的な行動はある

 ここで改めて考えよう。能動的な行為と意識的な行為とは同じものなのだろうか? 当たり前な質問のようだが、実は微妙な問題でもある。これまでの話からも、能動感を伴っていても、意識されにくい行動は数多くあるのだ。例えば上の例に示したような、歩く、という行為はどうか?私たちは普通歩いている時、「まず右足を出して、ええっと、次は左足を出して・・・」と意識的に歩いているわけではない。ということはこれは半ば無意識的な行為ということになる。しかしそれはやはり能動的な行為に感じられる。なぜなら「ではあなたは歩くつもりはなかったんですか?誰かに歩かされていたのですか?」と問われれば、「いえ、そんなことはありません。ちゃんと自分で歩いていましたよ」と答えるだろうからだ。ということは私たちは能動的だが無意識的な行為について考えていることになる。
 ではそもそも意識的な行動とは何か? 脳科学的にいえば、意識的な行動とは前頭前野の活動を伴っているものだということになる。最近は意識を考える代わりに、いわゆるワーキングメモリー(作業記憶)を想定する傾向にあるが、これはある意味で非常にわかりやすい。電話番号などを一生懸命に復唱しているような行為こそ、紛れもなく意識的な行動といえるからだ。
 そのワーキングメモリーの機能をつかさどっているのは、前頭葉の中でも
前部帯状回と背外側前頭前野の相互作用と考えられている。逆にいえば、ここの活動を伴っていないような行動は、あまり意識野に上っていない可能性が高い。それでもそこに能動感(つまり自分がやっているのだという感覚)が残るのは、最初はそれが意識的に行なわれ、徐々に脳のほかの部分により自動化されていったからだと考えることができる。
 同じ歩く、という行為でも、それが意識的な行為から無意識的、自動的な行為に変換していく例を考えることができる。しばらく病床で過ごした人が、リハビリで歩行訓練をする際を考えてみよう。彼にとっては最初の一歩はかなり意識的なものとなるはずだ。足をどの方向にどれだけ力を込めて出すかを考えながら行なう行為は、まさに能動的といえる。前部帯状回もフル回転していることだろう。ところがそのうちその作業に慣れ、それが当たり前になって来ると、前頭葉はその作業の多くを他の部位(大脳基底核、小脳など)に任せてしまう。でも「自分がやっているのだ」感は残存するのである。

2012年9月24日月曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (3)

ニューラルネットワークの自律性と能動的な体験

ニューラルネットワークの持つ自立性ということに言及したが、これについてはさらに説明が必要になるだろう。まずその自立性をもっとも典型的な形で表しているのが、私たち自身が能動的と感じる体験である。ネットワークの自律性は、意識にとって「自分がやっている」という感じを生む。これは前野流にいえば錯覚、ということになるが、それでもネットワークの自律性が主体の能動性に切れ目なく連続していることを意味する。
 私たちがあることを意図して行う時、「今自分がこれをやっているのだ」という感覚は通常ならごく自然に生じる。たとえば手を伸ばして目の前のコップを取り上げる、という動作を考えよう。コップを取り上げたあなたは、それを自分の自由意思で行ったということについては、疑問を抱かないはずである。
 しかしこのような動作を細かく見た場合には、実はそれがかなり自動的で無意識的な行動の連続により成立していることに気が付くだろう。そもそも最初の手を伸ばすという行為からして、どこまで純粋に自発的かはわからない。あたかも私たちの意識は「手を伸ばす行動をする命令をいつでもいいから体に出しなさい」という命令を脳に投げかけて、あとは脳が勝手にさいころを転がして、その瞬間を適当に決めて行っている、というところがある。そしてここが大事なのだが、いざ手を伸ばすという行動が開始すると、私たちはそれを意外に思うのではなく「ほら、私が意図したとおりに手を伸ばし始めているぞ」という能動感を得る。これが錯覚であるということの根拠を、私たちはBLの実験を通して学んだのである。被験者に、「指を好きなときに動かすように」と指示すると、ある瞬間にそれを自分に命令したと感じた人の脳の脳波は、実は必ずそれより0.5秒先立っている、というあの実験だ。そしていったんコップに手を伸ばし始めたら、どこまで手を伸ばすか、コップをどの程度の握力でつかむか、などの細かい情報は実は小脳や大脳基底核に入力されている。決して自分が意図してそれらを決めているわけではない。それはそれらの部位の障害を持った人が、この簡単な作業の遂行がまったく不可能になってしまうことからもわかるのである。
 このように考えると目の前のコップをつかむという能動的な行為でさえ、どこまでが自分の能動性の発揮されたものなのか、どこまで脳が自動的、無意識的に行なっているのか、という問題はたちまち見えにくくなってしまうのである。
 この能動性の感覚は様々なのものまで及ぶことが知られる。たとえば私たちが歩いたり呼吸したりするという行為は、かなりの部分が自動的、無意識的に行われているが、それでも「自分が呼吸をしている、歩いている」という感覚を与えるだろう。無意識的に行っている、ということは脳の呼吸中枢や運動やからの信号が必ずしも私たちの意識野に上っていない、ということであるが、それでも私たちはそれを自発的に行っている、という感覚を持つのだ。ちょうど政界の派閥の長は、秘書のやっていることにいちいち関与をしていなくても、自分の指示で行なっているのだ、という感覚を持つように。(それにしてはいったん問題が生じると、派閥の長は秘書の自律性を主張し始めるのは非常に不思議な現象といわなくてはならない。)

 無意識に行なっていても、能動感が伴うような行動については、たとえば陸上競技のスタートなどは好例である。陸上競技では号砲による合図から0.1秒以内に競技者が反応するとフライングと判定される。正常なら音に対する身体的な反応は医学的に見てそれ以上かかることが知られているからだ。ただしいつ来るかわからない刺激を待ち構えている場合には、普通の人で反応するのに0.2秒ほどはかかるとされる。「光源が光ったらボタンを押すという単純な反応を調べると、一流選手でさえ0.2秒かかります。そこから青と赤ふたつのランプを用意したり、選択肢が増えると反応時間は増加していきます。しかも全身運動の場合だと、単純反応に約0.1秒がプラスされます」(生島淳 新世代スポーツ総研 剛速球を科学する 人間は何キロの球まで打てる?http://number.bunshun.jp/articles/-/12200 より)。
それなのにトップアスリートの場合はこれが0.1秒まで圧縮されていくわけである。そのプロセスはまさに脳が号砲の音を聞いてから足の筋肉を収縮させるというループにバイパスを設けていくかということになる。そしてそれは当然意識的なプロセスを迂回していく。それでもアスリートはそれでも「自分はピストルの音を聞いてスタートしたのだ」という能動的な感覚を持つであろう。ところがそれはピストルの音を聞いて、一歩踏み出した後に事後的に、いわば錯覚として作られるといっていいのだ。

2012年9月23日日曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (2)

ニューラルネットワークと自律性

脳をニューラルネットワークとして捉えた場合に、それが示唆することは大きい。しかしそれでも永久に解決しない問題がある。それは意識とは何か、というテーマだ。「意識のハードプロブレムhard problem of consciousness」(チャーマーズ)と言われる通り、私たちの意識が生まれる課程は現在のいかなる脳科学を持ってしても十分に説明されつくすことはあり得ない。ただそのハードプロブレムに一歩近づくヒントは与えられるように思う。それは巨大なニューラルネットワークはそれ自身が、意識を析出するという性質を持っているということだ。マインドタイムのBLの実験を思い出していただきたい。指を動かそうとする意思は、それを意識する0.5秒前にどこかで作られた。それはニューラルネットワークにおいて、としか言いようがないだろう。なぜなら脳波とは、ネットワークを流れる信号の存在を証拠づけているからだ。すると意識とはニューラルネットワーク内の活動の帰結といっていい。そしてその意識がどれだけ複雑で、重層的はそのネットワークの緻密さによるのである。そのことは自然界に存在する様々な動物において観察される意識の存在と、それを生み出す中枢神経系の複雑さとの関係から容易に想像できることだ。
 ところでこのハードプロブレムの一番難しい部分は、意識が主観的な体験であること、すなわち外部から証明できないということである。この事は例えば次のような疑問を思い浮かべればいい。昆虫に意識はあるだろうか? あるいはネズミに意識はあるだろうか? 昆虫となると精巧なロボットと似ているから意識がなくてもいい、という人がいるだろう。しかしペットとしても飼えるくらいの知能を有するネズミなら、いかにも意識を持っていそうに思える。それが犬ともなると、確実に持っていると普通なら考えるだろう。感情も表現するし、意志も持っているようだし、性格もそれぞれの犬ごとに違うのだから・・・・。しかし問題はそれを証明の仕様がないのである。言葉が話せないからだろうか? 否、お互いに言葉を交わせる人間でさえ、相手が自分自身が持っているような意識を有するということを究極的に証明する方法はないのだから。 
 そこでひとまず意識の問題をニューラルネットワークの有する自律性という問題に置き換えるというのが私の提案だ。自律性とは、それがあたかも独自の意図を持っているかのごとく振る舞うという意味だ。この「かのごとく」がミソである。そのように見えるのであれば、もう自律性と呼んでいい。それでも昆虫なら、精巧なロボットが外界の刺激による反射と本能としてプログラムされた行動と、そして後は内部のランダム表か何かにより動いているのと変わらないように思えるかもしれない。しかしネズミや犬となると、はっきりした意図を持っているかのごとく見える。だからそこに自律性を認めてもいいのだ。そしてそれこそはニューラルネットワークの産物と呼んでいいものなのである。なぜなら生物の自律性こそは、その有する中枢神経系の複雑さとまぎれもなく対応しているからである。それでは改めて意識とは何か。意識はその自律性を持ったネットワークが、錯覚として体験することに他ならない、というのが私の見解だが、これには同様の意見がすでにある。それが以下に述べる前野隆司氏の説である。


前野隆司氏の「受動意識仮説」
 慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」について、彼の代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説前野隆司 () 筑摩書房、2004年)をもとにして簡単にまとめるならば次のようになる。

 どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
 前野氏の心の理論を一言で言うと、それはニューラルネットワークは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここで何がトップでボトムか、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、と考えてよいだろう。)
 巨大なニューラルネットワークとしての脳では、無数のタスクが同時並行的に行われている。それらは各瞬間に新しいものを生み出している。それを私たちの意識は受け取っているだけなのにもかかわらず、自分が能動的に生み出していると錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官としての意識などはどこにもいないことになる。

2012年9月22日土曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (1)


 精神科医として仕事をし、人の心について考える機会が多いこともあり、私には私なりに、「脳の働きはこんな風になっているのだろう」というという大体の感覚を持っている。もちろん仮説的なものだし、詳細は全然わからない。ただ全体の輪郭がある程度はぼんやりとつかめている気がする。
 この感覚は宇宙についての感覚と似ているかもしれない。宇宙にはなぞが多く、知れば知るほどわからないことが出てくる。しかし物理学の進歩によりある種のイメージ、何がわからないのかも含めた輪郭のようなものを私たちは持つにいたっている。
ニューラルネットワークとは? 
さて脳の話であるが、一つ確かなことは、それは巨大な神経のネットワークであるということだ。脳全体で1000億とも言われる神経細胞が、他の数多くの神経細胞と連絡している。それにより成立している巨大ネットワーク。それをニューラルネットワークとよぶ。現在では脳のあり方をとらえる図式として、現代ではこのニューラルネットワークモデルが非常に注目されている。
 このニューラルネットワークモデル、仮説というよりは現実の脳の姿そのものを表していると言える。脳の構造を知るための様々な技術が進歩するにつれ、神経細胞のネットワークとしての脳の現実的なあり方が、徐々に解明されつつあるのだ。もちろん神経細胞の一つ一つの連携を見ることはおよそ不可能ではあるが、その輪郭を追う手立ては少しずつ整っている。一つは「拡散テンソル画像 diffusion tensor imaging」という手法で、神経細胞を結ぶ神経繊維の中を動く水分子に焦点を当て、マッピングするという。すると以下のような画像が得られる。脳を中央から切断した際の輪郭をこれに重ね合わせていただきたい。虹色の繊維のようなものが見えるが、これは神経線維の走っている方向をわかりやすく色づけしたものである。その細い繊維の一本一本が、神経細胞から発しているということになる。




      http://committedparent.wordpress.com/2008/08/15/on-neuro-gastro-integration/

 ただしこれではネットワークという印象は得られないかもしれない。それでは大脳皮質にある神経細胞間の結びつきを、これらのDTIの画像から割り出すことは出来ないか? 実はそのようなテーマを研究する「コネクトミックスconnectomics」と呼ばれている学問の分野がすでにできている。そして研究により次第に分かってきたのは大脳の後部内側に一つのネットワークのセンターが存在し、それが左右半球にまたがっているということである。
 この分野で最近インディアナ大学とオランダのチームが画期的な論文を発表した。それが2011年11月2日に出版されたThe Journal of Neuroscience,にであり、それに掲載された画像が素晴らしいので紹介する。

 この研究は 21人の脳の活動のMRI画像から得られたという。これを見る限り脳には沢山のハブがあることがわかる。そしてその中でも12のハブが特に多くの情報をお互いに交換する。それらは、左右の上前頭皮質、上側頭皮質、そして皮質下の海馬や視床などである。これらを著者たちは「お金持ちクラブ」と呼び、脳の情報網はこの12のハブを中心に行われるという。(van den Heuvel, MP and Sporns, O : Rich-Club Organization of the Human Connectome. The Journal of Neuroscience, 2 November 2011, 31:15775-15786)
 このようなネットワーク上に生じていることは、極めて複雑で錯綜していると想像できる。それを地球を人間の脳にたとえて考えてみよう。一人ひとりが神経細胞の一つ一つに相当すると考えるのだ。地球上の人口100億足らずと1000億の神経細胞とはオーダーとしてはあまり変わらないとしよう。そしてそれぞれの人が何人かとメールや電話で通信をしているような状態が、多くの神経細胞との間にネットワークを築いている個々の神経細胞のあり方ということになる。すると人々が生み出す噂、流行、地方の集会やデモ行進などは、その規模が小さい場合には世界的レベルではほとんど無視される。しかし例えば国同士の戦争とかオリンピックとかアメリカの大統領選挙、ということになると世界レベルでの話題となる。するとそれがCNNなどのニュースに流され、それが「意識される内容」と考えることが出来るかもしれない。
 そして個々の人々の中には、圧倒的な影響力や情報発信能力を持つ人が現れるだろう。一国の大統領や映画俳優やサッカー界のヒーローなど。それらの人々の発言はすぐにニュースになるだろう。それが先ほどの研究に出てくる「お金持ちクラブ」のメンバーということになる。

2012年9月21日金曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか?-心理士への教訓


養老孟司先生の「バカの壁」(新潮新書、2003年)にこんなくだりがある。
「たとえば容易に想像できるのは、仮に犯罪者の脳を調べて、そこに何らかの畸形が認められた場合、彼をどう扱うべきか、という問題が生じてきます。連続幼女殺害犯の宮崎勉は3回も精神鑑定を受けている。彼の脳のCTをとってみればわかることだってあるのではないか。」「ところが、司法当局、検察はそれをやるのを非常に嫌がります。なぜならこの手の裁判は、単に彼を死刑にするという筋書きのもとに動いているものだからです。延々とやっている裁判は、結局のところある種の儀式に近い。そこに横から、CT云々といえば、心神耗弱で自由の身ということに繋がるのではないか、という恐れがある。だから検察は嫌がる。」(p150151
この養老先生の記述を読んで、心理士の方々はどのように感じるだろうか。その多くはこの検察官たちのような心境にあると自覚するだろう。凶悪犯を非難の目を持ってみることは心理士も一般人も変わりない。なぜならサイコパスや連続殺人犯は普通心理士のオフィスを訪れてセラピーを受けるということはほとんどあり得ないからである。心理士が扱うのは主として、サイコパスやその傾向を持った人々の犠牲者である場合の方が、はるかに多いだろう。
 無論心理士の中には、少年鑑別所の鑑別技官という立場にある人もいるだろう。彼らは「鑑別面接」を行う中で、「少年を明るく静かな環境において、少年が安んじて審判を受けられるようにする」ために働く(少年鑑別所処遇規則
(昭和二十四年五月三十一日法務庁令第五十八号))。技官にとっては凶悪な罪を犯した少年も患者に接するようにして扱う必要が生じるために、その一部を占めるであろう若いサイコパス達に対する態度もおのずと一般の心理士とは異なる可能性がある。しかしそのような特殊な状況にない限り、心理士にとってはサイコパスたちをを社会の敵であり、同時に患者たちにとっての敵、として扱うことになるだろう。
 しかしこれはダブルスタンダード(一方のみを差別的に扱うこと)ではないのか?サイコパスも脳の障害の犠牲者ではないのか?精神障害の犠牲者を一方で援助しながら、サイコパスを社会の敵とみなすのは矛盾はしていないだろうか? サイコパスたちの脳の形態異常について知った私たちが考えなくてはならないのは、この問題である。
 サイコパスは脳の障害を持った人である、という認識は、実は私たちにとっても、臨床家にとっても非常に不都合なものである可能性がある。というのも私たちが持っている勧善懲悪の観念の根拠を奪ってしまうからだ。社会正義を考える場合、他人に害悪をもたらす人々、つまり「悪い人々」を想定せざるを得ない。それらの人々が罪を犯した場合、それに見合う懲罰を与える、つまり「懲らしめる」というシステムなしに成立する社会を私たちは知らない。その場合、その悪い人の犯罪は、その人がそれが他人を害したり法を犯したりすることを十分知った上で、それを故意に選択したということが条件となる。そうでないと私たちはその人を罰することに罪悪感を覚えてしまうからだ。 さてそこにサイコパスが登場する。彼は「私はこの人をいたぶって殺すことを選択しました。私は狂気に襲われたのではありません。私は正気でそれを行ったのです。」ところがその人の脳のMRI画像を取ってみると、その一部がしっかり委縮しているのである。彼は生まれつきの脳障害の結果として残虐な犯罪行為に及んだのだろうか。だとしたら私たちは彼を「悪人」として断罪できるのだろうか?  そのような典型例が、2011年にノルウェーで数十人の人々を殺戮して世界を震撼させたアンネシュ・ブレイビクである。彼は自分は正気だと言って心神耗弱として精神病院に送られることに強硬に抵抗を示しているという。彼が受けた二つの精神鑑定が全く別の結果であったこともまた深く考えさせる。一つは統合失調症、もう一つは正気。つまり後者はブレイビクの意見に一致している訳だ。しかし彼の脳の画像をもし取ったとしたら、かなり怪しいであろう。  幸いなことに、サイコパスたちが心理士のもとを治療に為に訪れることはまずないと言っていい。もし私の病気を治してほしい、と言ってきたサイコパスがいたとしたら、おそらく彼は本当の意味ではサイコパスではないのである。だから心理士はサイコパスたちを「悪人」として扱うことをやめなくても当面は不都合はない。サイコパスの犠牲者たちの心理療法に専念すればいいのである。しかし精神医学者は、脳科学者は、とくにforensic psychiatsirst (司法精神医学者)たちは、彼らが病者として扱われるべきかどうかについて頭を悩ませることになるのだろう。
最後に一言。サイコパスの脳の異常の問題は、心理士が患者を受け入れるとはどういうことかについても疑問を投げかける。目の前の患者がサイコパスではないとしても、実は心理士にとって道義的に許されないような過去を持っていたら。近親者に暴力を振るい、あるいは犯罪行為に走り、反省の色が見えないとしたら。それらの行動を起こす患者に、治療者はどこまで共感の糸を保つことが出来るのだろうか?あるいは共感の限界を示すことが治療なのか・・・・?
考えるべき素材は尽きないのである。

2012年9月20日木曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (4)

私たちの中のサイコパス?

ところでサイコパスに興味を持つ人にとって必読の書がある。それがロバート・ヘアという心理学博士の「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」という本でわが国でも翻訳が出ている。(「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」 (ハヤカワ文庫NF) ロバート・D. ヘア Robert D. Hare 早川書房 2000-08)ヘアはこの世界の大家で、彼の著作はサイコパスという概念が一般に知られることに大きな貢献をしたが、若干それが行き過ぎだったという批判もあるという。それは、サイコパスが私たちの生活で出会う人の中に数多く存在するという印象を与えすぎたというわけだ。

彼はあるインタビューで答えている。http://healthland.time.com/2011/06/03/mind-reading-when-you-go-hunting-for-psychopaths-they-turn-up-everywhere/ それによれば、サイコパスは一般人の100人に一人だが、ビジネスリーダーたちに限ってみると、四倍に跳ね上がるという。確かに彼らは有能であればあるほど、一定の能力にたけていることになるのかもしれない。それは利益を追求し、必要とあれば一気に何千人もの従業員を解雇して路頭に迷わせることが出来る能力である。事実サイコパステストには、ビジネスに関しては「正解」なものも多いという。いわば資本主義ではサイコパス的にふるまえばふるまうほど利益があげられるということらしい。これについてはたとえば日本でのオレオレ詐欺の現状を考えてみよう。あれほど巧妙にやればやるほどもうかる商売はないと言える。

これについては、最近興味深いニュースが伝えられたことをご存知の方もいるかもしれない。

「勝ち組」はジコチュー? 米研究者ら実験で確認

 お金持ちで高学歴、社会的地位も高い「勝ち組」ほど、ルールを守らず反倫理的な振る舞いをする――。米国とカナダの研究チームが、延べ約1千人を対象にした7種類の実験と調査から、こう結論づけた。28日の米科学アカデミー紀要に発表する。
 実験は心理学などの専門家らが行った。まず「ゲーム」と偽って、サイコロの目に応じて賞金を出す心理学的な実験をした。この結果、社会的な階層が高い人ほど、自分に有利になるよう実際より高い点数を申告する割合が多かった。ほかに、企業の採用面接官の役割を演じてもらう実験で、企業側に不利な条件を隠し通せる人の割合も、社会的階層が高い人ほど統計的に有意に多かった。別の実験では、休憩時に「子供用に用意された」キャンディーをたくさんポケットに入れる人の割合も同じ結果が出た。 (朝日新聞デジタル、2012228)http://www.asahi.com/science/update/0228/TKY201202270655.html

もちろんこれらのキャンディー好きがサイコパスだとは言えないだろう。しかしおそらく「プチ・サイコパス」と考えてもいいのかもしれない。物事には程度がある。サイコパスにも「ちょいワル」程度から連続殺人犯までのスペクトラムがあるはずだ。その中でかなりの部分が、社会的な成功者の中に見られてもおかしくない。
ブログで書くのがふさわしいかはわからないが、二か月前に週刊文春で話題になった某大物政治家の妻の手記のことを私は思い出す。私は前から彼の人格ことが気になっていたが、やっぱりか、という感じである。政治の世界もまたサイコパス率が高いのかもしれない。ここで皆さんは気になるかもしれない。彼らもまた脳に異常があるのだろうか? 「立候補するに当たっては、内側前頭前野と側頭極の大きさが一定以上であることが条件とされます」なんちゃって。 

サイコパスは治療可能か?

ところでサイコパスは生まれつきの脳の障害であるとしたら、それを治療するという試みはおよそ意味がないことにはならないだろうか? しかし現在のように脳の画像技術が発達していない時代には、彼らを真剣に「治療」しようという試みが少なからずあった。
 1960年代にアメリカのある精神科医が実験を行ったという。彼が考えたのは、「サイコパスたちは表層の正常さの下に狂気を抱えているのであり、それを表面に出すことで治療するべきだ」ということだった。その精神科医は「トータルエンカウンターカプセル」と称する小部屋にサイコパスたちを入れて、服をすべて脱がせ、大量のLDSを投与し、お互いを革バンドで括り付けたという。そしてエンカウンターグループのようなことをやったらしい。つまり心の中を洗い出し、互いの結びつきを確認しあい、涙を流し、といったプロセスだったのだろうと想像する。そして後になりそのグループに参加したサイコパスたちの再犯率を調べると、さらにひどく(80%)になっていたという。つまり彼らはこの実験により悪化していたわけだ。そこで彼らが学んだのは、どのように他人に対する共感を演じるか、ということだけだったという。
サイコパスの問題は、オキシトシンともアスペルガーともつながる
 この一般人の持つサイコパス傾向の問題は、これまでに論じたオキシトシンの話とも、アスペルガー障害の話とも、そして話を複雑にして申し訳ないが、ナルシシズム(自己愛)との問題とも複雑に絡み合っている。要は他人の心、特に痛みを感じる能力の欠如に関連した病理をどうとらえるか、ということになる。ここに列挙された状態はいずれも男性におきやすいということになるが、そこで想像できる最悪の男性像は目も当てられない。まず発達障害としてアスペルガー障害を持ち、内側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまった場合などうだろうか。まさに才能と権力と冷血さを備えたモンスターが出来上がるわけだが、歴史とはこの種の人間により支配されていたという部分が多いのではないか。ヒトラーは、信長はどこまで重なっていたのだろうか? いずれにせよ私は再びいつもの嘆息を漏らすしかない。「男は本当にどうしようもない・・・・・」

2012年9月19日水曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (3)

そもそもASPDとは?サイコパスとは?

 そろそろ言葉の説明が必要になってきた。これまでに殺人精神病、サイコパス、ASPD、犯罪者性格など、いろいろな言葉が明確な区別なしに登場しているからだ。またサイコパスについては、それを直訳した「精神病質」という表現もある。これらの言葉には混同や重複がみられ、また専門家の立場によっても使い分けの仕方が異なるのも確かだ。
 まずDSMという「バイブル」により比較的明確に定義されているASPDについて。改めて言うが、これはantisocial personality disorder の頭文字で、日本語では「反社会的パーソナリティ障害」のことである。DSMの診断基準によれば、彼らは暴力的で衝動的、うそをつき、社会的ルールを守ることが出来ず、人の気持ちに共感できない、という人々をさす。ちょっとお友達になりたくない人たち、過去にDVや犯罪歴を持っていそうな人たちである。

 ではサイコパスとは?一般的な定義からすれば、衝動的で人の気持ちに共感できず、他人に対して残忍な行為を行う・・・・。何かASPDとあまり変わりがない。しかし歴史的にはASPDよりずっと古いのがサイコパスの概念である。本家本元はこちらの方だ。昔からmoral insanity「道徳的な狂気」と称されていたものがこれである。精神医学の世界では、統合失調症や躁うつ病などが明確に定義される前から、犯罪を犯すような人たちをひとまとめにする概念が成立していた。おそらく社会にとっては害悪を及ぼす人たちをいち早くラベリングする必要性があったからだろう。それがサイコパスである。
 サイコパスとはもちろん外来語であり、正確にはpsychopathy、あるいはsociopathy という表現が用いられ、日本ではシュナイダーの概念である「情性欠如者 gemutlose」という言い方も同義として扱われた。他方のASPD1980年のDSM-IIIから登場し、「犯罪を犯したり人に暴力をふるう人たち」一般のプロフィールを代表したようなところがある。
 さてこれら両者の区別であるが、事実サイコパスという用語はしばしばASPDと混同して用いられる傾向があるし、ICD-10のように両者を同列に扱う基準もある。しかし一般的にはASPDが行動面から明らかな所見に留まるのに対して、サイコパスはさらに内面的な特徴、たとえば罪悪感の欠如や冷酷さなどに重きが置かれている。だからあえて両者を区別する際は、サイコパスの方がより深刻でより深い病理を差すというニュアンスがある。つまりASPDの中でより深刻な人たちがサイコパス、という理解の仕方が一応可能であろう。
 そこで以下にサイコパスという表現に絞って論じよう。サイコパスの最大の特徴は冷酷さであると考えられる。より年少から罪を犯し、より重層的な犯罪行為にかかわり、行動プログラムに反応をしないという。彼らは痛みによる処罰などにも反応せず、平然としているために行動療法的なアプローチがそもそも極めて難しいという問題がある。

サイコパスたちを責めることが出来るのか?
 さてここまで述べるとだいたい私の趣旨がわかってもらえるだろう。福島氏の殺人者精神病は、このサイコパスのプロフィールと重なる部分があるのである。ただし一回限りの、出来心での殺人ではなく、本人の生来の冷酷な性格の帰結として殺人を犯してしまった人たちこそが、サイコパスの基準を満たすと考えるべきである。そしてそこには脳の形態上の異常が見られるということであった。その異常として福島が指摘したのはかなり多岐にわたる以上であったが(クモ膜嚢胞、孔脳症、小回転症、脳室・脳溝の拡大や左右差など)、ブラックウッドらの詳細な研究によれば、それが内側前頭皮質と側頭極の灰白質の容積の小ささ、という形でさらに特定されている。
この様にサイコパスたちが持つ冷酷さや非共感性などは、彼らが生まれつき持っていた脳の異常のせいということになるが、実はこの問題は、私たちを深刻な混乱に導きいれる可能性がある。もしサイコパスたちが脳に障害を負った犠牲者、被害者だとしたら、私たちは彼らがおかす様々な犯罪について、それを彼らの責任に帰することはできるのだろうか? それは生まれつきさまざまなハンディキャップを担った人たちを責め、罪を問うて社会から隔離することとどう違うのだろうか? もちろんこれに答えはないが、極めて重要な課題を投げかけていることだけは確かである。

2012年9月18日火曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (2)

ロンブローゾは時代の先取りをしていた?

福島氏の「殺人精神病」はしかし、改めて私たちに殺人者たちの脳の異常についての関心を呼び起こす。殺人が「病気」であるかは別として、殺人を犯しやすい人々(私が本章で「サイコパス」と呼ぶ人たちの脳に何らかの異常所見がみられるということは今では定説になっている。しかしこれはかなり最近の話である。以前は犯罪者には身体的な特徴があるという説は偏見扱いされていた。その節の一つを紹介しよう。ロンブローゾの説である。
ある意味で革新的だった?Lombroso 先生
 
  チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso18351909)は19世紀のイタリアの精神医学者である。私が精神科医になったころは、ロンブローゾの説は一種の「トンでも」扱いされていた。犯罪を犯す人たちには脳の形に異常があるという彼の説は、この上もない偏見とみなされていたのである。彼は『天才と狂気(Genio e follia1864)』で骨相学人類学遺伝学などを駆使して、人間の身体的な特徴と犯罪との相関性を調べたという。彼は膨大な数の犯罪者の頭蓋骨を調べ、また数多くの受刑者の風貌や骨格を調べて、彼らには一定の身体的・精神的特徴(Stigmata)が認められる」とした。ちなみにこのStigmata とはヒステリーの概念にも用いられた、かなり偏見に満ちた用語である。以下にちょっと安易だが、日本版ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki)の「チェーザレ・ロンブローゾ」の項目の中から引用する。
「ロンブローゾは身体的特徴として「大きな眼窩」「高い頬骨」など18項目を、また精神的特徴として「痛覚の鈍麻」「(犯罪人特有の心理の表象としての)刺青」「強い自己顕示欲」などを列挙した。彼によれば、これらの特徴は人類よりもむしろ類人猿において多くみられるものであり、人類学的にみれば、原始人の遺伝的特徴が隔世遺伝(atavism)によって再現した、いわゆる先祖返りと説明することができる。」

  もちろん依然として問題の多いロンブローゾの説ではあるが、極端な形ではあれ、現在の議論の先取りをしていたということにもなろう。というのも脳の形態学的特徴に関するデータは、現在さまざまな精神疾患に関して調べられるようになってきているからである。

サイコパスと脳の異常の関係
 最近ロイター通信が次のようなニュースを伝えている。http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507
Study finds psychopaths have distinct brain structure (サイコパス(精神病質)たちが特異な脳構造をしているという研究)”
  この記事のさわりを私なりにちょっと訳してみよう。
「殺人やレイプや暴行により起訴された人々たちの脳のスキャンにより、サイコパスたちは特異な脳の構造を有していることがわかったという。ロンドンキングスカレッジの精神医学研究所のブラックウッドらの研究によると、そのような所見は彼らをその他の暴力的な犯罪者とも区別するほどだそうだ。それが内側前頭皮質と側頭極である。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。サイコパスたちの脳は、これらの部分の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の量が少ないという。こうなると認知行動療法的なアプローチもできないことになる。ちなみにこのことは司法システムとも関連してくる。というのはこれらの人々を脳の異常であるとしることで、これらの犯罪者が心神耗弱ということで無罪放免にされてしまう可能性があるからだという。」
 
  ブラックウッドの研究をもう少し見てみる。MRIを用いた研究では、44人の暴力的な犯罪者を対象としたが、そのうち17人がASPD(反社会性パーソナリティ障害)プラスサイコパスの基準を満たし、あとの27人は満たさなかったという。それを22人の正常人と比べると、サイコパスたちにおいては、例の二つの場所の灰白質の量が顕著に減っていたというのだ。ちなみにこれらの部位がおかされると他人に対する共感をもてなくなり、恐れに対する反応が鈍くなり、罪悪感とか恥ずかしさなどの自意識感情を欠くことになる。

2012年9月17日月曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (1)

「殺人精神病」という概念

狂気にはいろいろある。しかし一部の殺人者の陥る狂気ほど恐ろしく、有害なものはない。たとえば私たちの記憶に新しいものでは今年の6月にあった事件。610日午後1時ごろ、大阪の心斎橋の路上で二人を刺し殺した男が吐いた言葉。「(自分では)死にきれず、人を殺してしまえば死刑になると思って刺した」。これほどに救いがたく絶望的な狂気があるだろうか。
  この章ではいわゆるサイコパス、あるいは犯罪者性格者たちの脳の異常について論じるが、文章中に出てくるサイコパス、犯罪者性格、反社会性格などについての言葉の定義は後回しにして、まず殺人を犯した人たちについての話から始める。
  わが国を代表する精神医学者の一人、福島章氏の著作に「殺人という病」(金剛出版、2003年)がある。彼は数多くの殺人者の精神鑑定を通して、殺人行為はそれだけで一種の疾患単位を形成するのではないか、という考えに至ったという。それがこの著書の趣旨である。殺人という、多くの場合は一回限りの行為を症状とした病気がありうるのかは難しい問題であろう。そのせいか専門家の間でも必ずしも福島氏のこの概念は評価が定まっていないようである。しかし私はこの本に愛着を持っている。
 福島章氏がこの本に先立って書いた論文「殺人者の脳と人格障害」(こころの科学 92000p. 6165) は私にはとても印象深かったことを思い出す。この論文で福島氏が語っているのは、彼自身がこの考えに至った経緯である。もともと精神分析や甘え理論に関連した犯罪者の論考を書いていた同氏は、ある意味では「文系」だったのだが、その考えが大きく変わったのが、その間に発達したCTMRIなどの画像診断であったという。「殺人者の半数以上に脳の形態異常があるのに比べて、殺人以外の犯罪者のそれは14%にすぎない・・・・。」この事実に愕然とした福島氏は殺人者の脳の異常という問題に興味を移していく。

 私が特に感銘を受けたのは、本来は精神病理学や精神分析、天才の研究、文化論など脳とは無縁の分野に関心を向けていた氏が、画像診断や脳波などの示すものに率直に影響を受け、ある意味では極端な器質論者と見られかねない立場をとるようになったことである。自分のこれまでの研究分野を離れて新しい知見を取り入れて方向転換するということは、いったんある分野で名を成した大家にとっては極めて難しいことなのだ。老大家たちが学問の世界に及ぼす弊害のひとつは、彼らが若いころに得た名声と影響力のままで、新しい知見に頑強に抵抗し、若い人々を惑わし続けることなのだ。宇宙は拡張し続けるという意までは常識である概念に、最後まで反対し続けたアインシュタインのように。
  それはともかくとして、もう少し福島先生の説に耳を傾けよう。以下は「殺人という病」からの引用を用いる。彼は従来の「主として心理―社会的次元の要因だけを考える従来のような記述的な研究だけでは不十分で、脳という生物学的な要因を十分に考慮し、生物―心理―社会的要因を総合する考察」が必要であるとする(p7)。さらに殺人者の精神鑑定ではしばしば鑑定医により診断がまちまちであることをあげ、むしろ殺人者精神病 murderer's insanityという概念を提唱する。そしてその主症状は殺人行為である、という。
 私の理解が浅いかもしれないが、この殺人精神病という概念は、トートロジカル(同語反復的)なところが問題なようである。「殺人を犯す人の生活史はバラバラで、反社会的な人はその一部にすぎない。いわば彼らは殺人をするという共通した症状を持つのだ。」つまり「殺人者は殺人という症状を持つ病気だ」。これでは殺人を犯した人の示すほかの症状や生活史上の特徴のも共通性を見出し、一つの疾患概念として抽出するというプロセスを無視した、いわば自明で中身が薄い疾患概念ということになる。「彼はどうして殺人を犯したのでしょう?」「殺人精神病だったからです。以上おしまい。」
  ちなみに私はこの「殺人精神病」の概念は、殺人を常習としている人には成立しうると考える。いわゆる連続殺人犯である。殺人を「症状」として抽出するためには、それがその人にとってパターン化していることが必要だからだ。しかし多くの殺人犯はそうではない。平成22年の犯罪白書によれば、殺人の6.3%が同種重大事犯、すなわち殺人を犯した者によるという。また殺人者の粗暴犯(暴行傷害脅迫恐喝凶器準備集合)の再犯率は5.5%であるという。もちろん殺人の後は刑務所に入る期間が長く、再犯の可能性がそれだけ低くなるなるのであろうが、それにしても多くの殺人事件に常習性はないと考えることが出来る。
 極端な例かもしれないが、リストカットを繰り返す人にリストカット症候群という診断を考えたとしても、過去にリストカットを一回行なっただけの人にその診断をあてはめることはできないだろう。殺人精神病にはそのようなニュアンスがある。

2012年9月16日日曜日

第4章 マインド・タイム ‐ 意識と時間の不思議な関係-心理士への教訓

 精神療法を行なう際、「無意識と心の関係はいかなるものか?」は重要な課題である。それは特に精神分析的な教育やトレーニングを経験していない心理士にとっても同じであろう。わが国の心理士で、精神分析の影響を受けていない人のほうがまれなのだ。そしてその精神分析においては、無意識の探求はその根幹をなすといってよい。
 しかしBLの実験が示唆しているのはそれとは別のテーマである。それは「脳と心の関係はいかなるものか?」ということだ。ある瞬間に意思を発動したと思ったら、脳はそれより半秒前にすでに動いている。ということはその意思発動を準備し、お膳立てをしたのは脳である。その脳の働きの詳細は不明ながら、それが500ミリ秒前にさかのぼって活動しているという事実は脳波計により示されたわけだ。

 ここで心理士は尋ねるかもしれない。その500ミリ秒の活動は「無意識」の活動なのではないか。そうかもしれない。しかしそれは精神分析的な無意識というわけではない。それは抑圧された性的欲動や攻撃性とはおそらく別の種類の活動であり、意識的な活動の準備をし、それと不連続的につながるような無意識なのである。もしかしたら意識とは、それ自身は意識化できないような脳の活動全体の氷山の一角として理解するべきなのかもしれない。
 BLの実験は要するに、脳がさいころを転がし、意識はそれを受けて自発的にそれを決めた、と感じるということだ。手を動かす瞬間も、脳が命令をして、それを意識は「今!」と自発的に決めたと錯覚する。人はそうやって生きている。とすれば患者の話を聞く心理士も、その行動の一つ一つにあまり意味を見出しても仕方がない、ということになりはしないか?脳の決断の受け手としての意識。その意識に「どうして~したんですか?」とか「あなたが~した理由を考えましょう」という問いかけは、意識が言い訳をするという性質を助長するということになりかねないだろう。それよりはスタンスとしては、「あなたが~したことについて、何か思い出すことは?」と連想を広げたり、「あなたが~したことについて、今後はどうなさろうと考えますか?」と将来について一緒に考えたりすることが重要になってくる。そこには、脳という宇宙の仕組みを少しでも知り、それに翻弄されることなく生きていくための方策を考えるプロセスがある。
 BLの実験を知るようになってから、私はひとつ患者に話して安心してもらうテーマを増やすことができた。それは「私たちは死ぬ瞬間を体験しないですむ」ということだ。これを話すと安心する人は少なくない。
 10年以上前にニューヨークで起きた「911」の事件を今でも鮮やかに覚えている人は多いだろう。そして旅客機がビルに突入する映像を見て、それを操っているテロリストや、その乗客にわが身を置いたという体験がゼロの人はいないであろう。旅客機がビルの中腹に突入し、一瞬にして粉々になってビルの中に吸い込まれた。おそらく一秒の何十分の一かのうちに、人々の身体は、旅客機の機体とビルを構成している建材や中の家具、そして中で働いていた人々すべては、超高温で融合したわけだ。この苦しみを体験した人はいただろうか?たとえ一瞬でも?
 幸いにして答えは「ノー」である。なぜなら人はそれを体験するまでに約0.5秒かかるから。そしてその前に人は死んでしまうから。乗客に、そしてテロリストに最後に体験されたのは、突入の0.5秒前までなのである。
もし私たちの死の恐怖が、その直前の極限に近い苦痛を体験することへの恐れにあるとしたら、それから私たちは実質的に解放されている。たとえ高いビルからまっさかさまに落ちて地面に身体をたたきつけられるとしても、その瞬間を体験するときにはすでに私たちは死んでいるのである。体中の骨が一瞬にして粉々になる際の極限の痛みを体験することは絶対にない。
 最近たまたま「死に方のコツ」という本(高柳和江著 小学館文庫、2002年)という本を読んだが、なるほど評判になる本だけあり、死ぬことへの恐怖がかなり軽減されるような考え方がたくさん書いてある。そこに私はこのBLの教訓を付け加えたいほどだ。「死ぬ瞬間を体験することはあり得ない」体験することのないことを恐れる必要はないということだ。死ぬ瞬間を体験しないということは、ちょうど私たちが毎晩眠りにつく瞬間を体験出来ないということと同じである。