2012年7月31日火曜日

続・脳科学と心の臨床 (64)

愛着と脳科学 2
ところで新生児は脳幹しか成熟していないと言ったが、脳幹は脳のもっとも原始的な部分である。ここは例えば愛着を始めるための準備を整えている。新生児が母親に引き付けられ、おっぱいを探すのは誰に教わったわけでもない。脳幹部分にすでにプログラムされた反射なのである。ここで先日紹介したANS(自律神経系)についてもおさらいしておくとよいだろう。
常識的な話だが一応言及しておくと、脳の系統発達を考えると、一番原始的な部分が脳幹だ。「脳科学と心の臨床」で紹介したポール・マクリーンの脳の三層構造説を復習しよう。
1.爬虫類脳(reptilian brain):最も古い脳器官、自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核より成り立つ。自己保全の目的の為に機能する。
2.旧哺乳類脳(paleomammalian brain):海馬、帯状回、扁桃体などの大脳辺縁系(limbic systemから成り立ち、快・不快の刺激と結びついた本能的情動や感情をつかさどる。種の保存の目的=生殖活動のための脳。
3.新哺乳類脳(neomam-malian brain): 大脳新皮質の両半球(右脳・左脳)から成り立つ。言語機能と記憶・学習能力、創造的思考能力など高次脳機能の中枢・・・

 とあったが、脳幹は生命の基本的な機能をつかさどる最も大切な部分で、少なくとも赤ん坊は生まれたときからトカゲや蛇並みの機能はしっかり備えている。最近上野動物園でパンダの赤ちゃんが死んだが、あのまだ体が透き通っている全くの未成熟な赤ちゃんでさえ、甲高い声で鳴き、お母さんのおっぱいにすがりつく能力だけは備えている。そしてそこで中心的な働きをするのがANSだ。ちなみにANSについての最近の研究のトピックは、迷走神経の、副側迷走神経と背側迷走神経への分類である。迷走神経はエネルギーを消費する交感神経のブレーキをかける役割と言ったが、前者が危機的状況でブレーキをかけるのをやめて交感神経を一挙に興奮させるのに比べて、後者はそれでもダメなときに逆にシャットダウンをしてしまうと言うのだ。コンピューターの強制終了とかリセットボタンのようなものだが、これが最近では解離現象と関連付けて理解されている。拙書「続・解離性障害」でもまとめたが、危機状況では3つのFが関連する。Fight(闘争), Flight(逃避),  Freezing(凍りつき)。最後がこの凍りつき、解離性昏迷状態というわけである。


No Title (4
相変わらすネイティブチェックを入れていない、テキトーな 英語である・・・

One of the main reasons that I chose Topeka, Kansas to be my place for the analytic training is that Dr. Tetsuro Takahashi kindly suggested that I seek to join the training program there. He is a Japanese psychiatrist and an analyst who trained at the Menninger Clinic in Topeka, and was then a unit chief of the Clinic. Since then he became one of my most trusted mentors in my career. With his help and advice, I applied for the Topeka Analytic Institute while I was still a second year resident, but it was obviously a premature attempt. I was not even aware of what personal analysis is like. The Institute recommended that I began my personal analysis before I seek another application, and I agreed with the idea. It was Dr. Lawrence Kennedy who took me for an analysis, 5 times a week, which eventually lasted for the next 5 years, from 1991~1996.



2012年7月30日月曜日

続・脳科学と心の臨床 (63)

愛着と脳科学

ショアにあれだけ吹き込まれると、もう次のテーマは「愛着と脳科学」しかないじゃないか!!実はこれには素晴らしいソース本がある。私が強引に書評した「愛着と精神療法」デイビッド・J・ウォーリン著、津島豊美訳 清和書店である。去年の分析学会でこの本を立ち読みし、惚れ込んだ私はしかしそのあまりの高価さ(5800円)にたじろぎ、そこで書評することを条件に献本してもらったのだ。(それにしても550ページにもなる立派な訳書をものした津島先生には頭が下がる。)

それはともかく、なぜ愛着と脳科学なのか。考えてみよう。脳は生まれたときもっとも未発達な臓器だ。たとえば腎臓も肝臓も心臓も皮膚も、サイズは小さいが大人の体と類似の機能をしっかり営んでいる。しかし脳の機能は、その生理学的な機能や自律神経系統をつかさどる脳幹をのぞいたらかなりゼロに近い。だって赤ん坊は一言も言葉を話せず、理解もできず、何を見ているかもわからず、ホーントに何にもできないのだ。そして赤ん坊を保育器の中に入れて食物を与えるだけでは脳は永遠に育たない。養育が決定的な影響をもたらすのである。そしてそこで大事なのは、母親から優しくなでられ、暖かな声をかけられ、見つめられ、そしてそのような環境においてさまざまな新しい刺激を受けることなのだ。
ここからは私もよくわからないので、考えつつ書くことにする。
私たちが安定した心で社会生活を送っているとしよう。心はおおむね満ち足り、特に不安にざわつくことなく、日常の仕事をこなし、余暇を楽しみ、休息をとる。その間脳はその局所が勝手に興奮して余計な信号を流し込んでくることはなく、そのせいもあって快感中枢は、極めて緩やかながら刺激されているはずだ。脳にそのような環境が出来上がっているという風にも考えられる。いわば安定した心という現象が生じるための基本条件というわけである。

ここで局所的な興奮がないと言ったが、これはどういう意味か? 常に大脳皮質の感覚野が自発的に興奮して余計な信号を流し込んできたり(幻覚体験)、青斑核が興奮して不安を引き起こしたり(パニック発作)、ほんの少しの刺激に扁桃核が刺激されて恐怖の感情が湧いたりする(フラッシュバック)ことはない。脳は慣れ親しんだ感覚入力(たとえば好みの音楽、アロマ、いつもの散歩コースの景色など)、新奇な刺激(ドラマの思いがけない展開、好きな歌手の新譜、いつもとちょっと違った散歩コースの景色など)に反応して、あるいは親しい人との触れ合いを通して、あるいは食事や休息により快感を味わい、それが生きる喜びを生む。
どうしてそのようなことが可能なのだろうか。それは脳という巨大な神経回路の興奮のパターンが安定したものとして出来上がっているということなのだ。ちょうど空気を構成する気体の無数の分子が構成する大気の在り方が、その場所の穏やかな日差しやそよ風を生むように、脳の神経回路もその穏やかな興奮の仕方をプログラムされ、覚えているからだ。ではそのプログラムはどこからくるのか? それが生後数年を通して行われる養育なのである。その時に形成された脳の神経の興奮パターンがその人にとってのデフォールトとなるわけだ。(もちろん将来精神病をやんだり、もともと脳の配線に異常があったりする場合には、どんなに養育が行き届いたものでもこの環境が形成されない場合もある。)
こんなイメージでもいいかもしれない。心が豊かな土壌を持つ畑であるとする。最初に耕し、肥料を撒く作業は赤ん坊一人ではできない。赤ん坊はいわば土そのものであり、それを耕し肥料を与えてくれるのは母親なのである。しかもその畑が肥沃になる機会はただ一度しかない。それは赤ん坊という名の真新しい土の時である。誤った肥料を与えらえ、誤った耕し方をされた土地をその後に改良することは至難、というより不可能なのである。(ここの土地の例、全然不必要だったかもしれない。あとで削除。)
No Title (3)


My psychoanalytic training began in the spring of 1993 when I was formally accepted to the Topeka Institute for Psychoanalysis in the U.S., which was six years after I got to this country. There were things to be done before the training. First, I needed to settle down and form a basis for my living: it takes a solid source of income to maintain myself throughout the training. As Dr. Okonogi mentioned that it takes a long time to be formally trained as an analyst, I thought that I should not make any definite plan to go back to Japan in the near future. (Being single and ambitious, I could afford to make such an audacious decision.) I thought that I needed to be licensed as a physician first all, before even attempting to get into the analytic training. After I moved to the US in 1987, I spent year and a half at the Menninger Foundation as an “international fellow,” a sort of medical student-like status, while getting acculturated to the new environment and cramming frantically for the medical examination for FMG (foreign medical graduates). After I passed the test in 1988, I began my psychiatric residency training in 1989, at Oklahoma Medical Center for the first year. I took this opportunity to invite my fiancé in Japan to the US to get married. I joined the residency program at the Menninger Foundation from second year on and completed it in 1993.
If I am asked about the toughest year in my life, it was when I was a first year resident in Oklahoma City. I was in a rotation for the internal medicine, not knowing anything about the medical acronyms scribbled on the charts, totally at a loss for patients talking to me like gun fires in African American accent. I was lucky enough that any of my patients reported to the local medical board that a foreign physician is in charge of patients’ care while comprehending only a fraction of what his patients are talking to him, but still pretending to be capable of his care.

2012年7月29日日曜日

続・脳科学と心の臨床 (62)

心理療法家への教訓

右脳が無意識・・・・・。だったらどうだというのだろう?それで患者への対応はどう変わるのだろうか?すくなくともフロイト的な無意識の探求は、一部修正を余儀なくされる。なぜなら患者の言葉が彼の無意識を反映している、象徴的に表しているという考え方はそのままでは正確ではなくなるからだ。「言葉≒左脳は無意識≒右脳の変形である」、というのは事実を反映していない。むしろ「言葉≒左脳は無意識≒右脳をその情緒的な側面として常に伴っている」と言うべきだろう。すると言葉の字義的な内容の分析にあまり意味はなくなってくる。むしろその言葉の意味にではなく、抑揚や、その時の患者の表情などに無意識を見出すということになるだろう。もちろん言葉≒左脳が、無意識≒右脳をそのまま代弁している場合もある。
たとえば患者がセッションの冒頭で「今日は何も話す気がしません。」と伝えたとする。まず従来の精神分析的な考え方だと、「これは患者の側の抵抗の表れである」ということになるだろう。しかし右脳≒無意識に基づく考え方に従った場合は、その言葉が伴っている情緒的なトーンに注意を向けることになる。するとその時の患者の声が抑うつ的に響いていたり、倦怠感を漂わせていたら、それらの情緒を伝えていることになる。またその言い方が何か挑発的であったり、とげがあると感じられたら、それは治療者に対する怒りの表現かもしれない。分析的な「これは患者の側の抵抗の表れである」という見方は、さまざまな可能性の一部を示しているにすぎないことになるし、ひょっとしたら間違いを含むかもしれない。「何も話す気がしない」は抵抗ではなく、その時の抑うつ的な気分のストレートな表現かもしれないからである。
しかしおそらく心理療法家は、分析的な意味での「患者の無意識の探求」を治療の目標とすることにはこれまでほど関心を持たなくなっても不思議ではない。患者と、その言葉≒左脳以外のすべてとかかわることを目指すかもしれない。それはどういうことか?
言葉とはいわば他人と社会的な関係を維持し、また自分にとって必要な信念や論理を守るための道具といったところがある。わかりやすく言えば「偽りの自己」(Winnicott)そのものである。その人が被っている仮面、外皮のようなものだ。猫をかぶる、というアレに近い。治療者は患者と対面して、その仮面を見通してその内部に語りかけ、内部とコミュニケーションを図る。ただしこれは言うはやさしく、行うは…難し、というより錯綜して非常に分かりにくいことになる。「より関係性を重んじよ」とか「ラポールを重視せよ」ということになるが、それって実は治療者側の右脳≒無意識をしっかり用いよ、ということにもなる。ここでこれ以上の解説をするよりも、次のような「心得」を掲げておきたい。
「心理療法とは、治療者と患者の右脳≒無意識同士の交流にその本質部分があると認識せよ(あとは自分で考えよ)」。

No title (2)


During my residency training in the psychiatric department, I took interest in psychoanalysis. Psychoanalysis was very actively promoted by the group of Keio University, with a strong leadership of Dr. Keigo Okonogi. Dr. Okonogi was one of the prominent psychoanalysts and a disciple of Heisaku Kozawa. Kozawa was a pioneer of psychoanalytic movement and had a personal contact with Freud when he trained in Vienna in the 1930s. Kozawa is also known for his notion of “Ajase complex” (a sort of Japanese counterpart of Freud’s Oedipus complex). Okonogi popularized his master’s notion of Ajase complex and wrote profusely on psychoanalysis and related topics. He stayed as the leader in the Japanese analytic community until his death in 2002.
As I reflect on my forming days as a psychiatrist in the early 1980s, my idea of going abroad and train in psychoanalysis was indirectly given by Dr.Okonogi. In my personal relationship with him, he stressed the importance of having a formal training of psychoanalysis that was not easily obtained in Japan at that time.


続・脳科学と心の臨床 (61)


右脳の機能として、これまで十分に扱ってこなかったものがある。それを最後に書いて終わりにしよう。それは自律神経の問題だ。「ジリツシンケイ?あまり聞かねえなあ」、と読み飛ばしたくなるかもしれない。私たちの体のうち自由にならない部分、つまり意図的に動かせない部分は、みなこの自律神経が関与している。私たちは腕や足を自由に動かすことができる。しかし緊張して胸がどきどきしているので、心臓の鼓動を遅くしたり、便秘気味だというので一生懸命大腸をくねらせたりすることはできない。それは、このいわば第二の脳としての自律神経が関係しているからだ。これから自律神経autonomic nervous systemを縮めて「ANS」と書き表すとするが、この自律神経という意味自体が、自分たちで勝手に動いて調節している神経系統、という意味であることはいうまでもない。そしてこのANSに深くかかわっているのが、右脳というわけだ。
ANS
では二つのシステムが綱引きをしているのはご存知だろう。交感神経系は血圧を上げたり、心臓をドキドキさせたり、ということに関係し、いわばエネルギーを消費する方である。それに比べて夜に活発になる副交感神経は省エネモードだ。ではこのANSが、「右脳=無意識」の議論にどのように結びつくのだろうか?そう、これを説明しておかなくてはならない。
ANS
がどうして無意識に関係しているのか?朝起きたあなたが、ふとそわそわしていることに気がつく。目もいつもよりさえているし、何か胸がドキドキしている。そして気がつく。「そうか、今日は会社でプレゼンの日なんだ。」この場合、あなたは今日は会社で「緊張を強いられることがある」という認識は完全な無意識ではない。しかしいつもにはない胸のドキドキを意識して「あれ?」と思った瞬間には頭になかったであろう。しかしそれを体、特に交感神経系のANSは知っていたということになる。ANSにはこのような性質がある。いったんは意識が「自分の身には~ということが起きるかもしれない」と判断すると、後はANSが自動的に体でそれを待ち受ける体制を作るのである。そしてこのANSの判断は正直である。もしあなたが「今日のプレゼンなんて楽勝だよ。緊張なんかしていないよ。」と人にもいい、自分でもそう思っているとしよう。でも心臓のドキドキや手足の震えはそれを裏切る形で体に表れるだろう。これはANSが無意識をあらわしているというわかりやすい例の一つといえる。


英語で書かなくてはならない原稿が出来てしまった。トホホ、である。ボチボチ書いていくしかないだろう。

No Title (1)



My career as a psychiatrist began when I graduated from Tokyo University Medical School in 1982. The psychiatric department of the Tokyo University Hospital at that time was still very politically inspired, bearing a remnant of active students’ activist movement in the 60s and 70s, which involved the medical school and several departments in the hospital setting. Our psychiatric department was literally split in half, outpatient department and impatient department, each run by a group of highly politically oriented psychiatrists, belonging to different political factions respectively. These two groups of psychiatrists were actually arguing and fighting, sometimes even resorting to physical aggression to accuse each others political stance on various issues, such as ethical concerns about psychiatric researches, problems involving lobotomy, and patients’ commitment for the sake of peace preservation (“hoan-shobun”). Having trained in these two departments, one year for each department, I was very struck by the mechanism of splitting which deeply implicates psychiatrists who are supposed to be aware of, and are able to observe and analyze, instead of acting on, such a “primitive defense mechanism”.

2012年7月28日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (60)



 コフート派の精神分析家アラン・ショアの最大の貢献は、彼が脳と心の接点について詳しく論じている点であろう。一世紀前に精神分析的な心についての理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、様々な欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。要するに彼にも無意識はつかみどころがなかったのである。夢分析などを考案することで、彼は無意識の法則を発見したかのように考えたのだろうが、決してそうではなかった。それが証拠に夢分析はフロイト以降決して「進歩」したとはいいがたいのだ。つまりフロイトの時代から一世紀の間、無意識の理論は特に大きな進展を見せなかった一方で、心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。それらが脳科学であり発達理論なのである。

ここで読者の方は、脳科学と発達理論がこのようにペアで言及されることに気付かれるだろう。なぜ発達理論がこうも注目を浴びているのだろうか?それはおそらく人間の乳幼児がある種の観察材料になって様々な心身の機能の発達がいわば科学的に調べられるようになってきているという現状がある。乳幼児というのは、言葉は悪いが格好の観察対象なのである。いわば実験材料として乳幼児を用いるというニュアンスがここにはあるが、しかしその結果としてますます重要になってきているのが、乳幼児の脳の発達に母親とのかかわりが極めて重要であるということである。つまり乳幼児は科学的な観察の対象にされることが自分たちにとっても結果的に有益なことといえるのだ。
発達論者が最近ますます注目しているのが、発達初期の乳幼児と母親の関係、特にその情緒的な交流の重要さであるという。早期の母子関係においては、極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、いわば母子間の情動的な同調が起きる。そこで体験された音や匂いや感情などの体験は主として右脳に蓄積されていくという(Semrud-Clikeman and Hynd (1990)。生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であり、右の脳の容積は左より優位に大きいという (Matsuzawa, et al. 2001)
Semrud-Clikeman, M., and Hynd, G., (1990) Right Hemisphere dysfunction in nonverbal learning disabilities: social, academic, and adaptive functioning in adults and children. Psychol. Bull, 107:196-209.
Matsuzawa, J., Matsui, M.et al. (2001) Age-related changes of brain gray and white matter in healthy infants and children. Cerebral. Cortex. 11:335-342. 

2012年7月27日金曜日

コフートにおける無意識 (2)


ところでこの論文にみられるコフートの立場は、「そもそも無意識内容をどうして内省・共感できるのか」という問題をめぐる論争を引き起こしたとは到底いえない。「内省=意識内容の把握、であるから内省で無意識が把握できるというのはコフートの妄言」というわけか。コフート理論には確かに彼の理論の革新的な部分を受け継ぎ、古典的な分析理論へのリップサービスと見られる議論は無視する、といった傾向があるらしい。つい最近お仲間の富樫公一先生から聞いたところでは、米国の自己心理学派の間では、コフートの「変容性内在化 transmuting internalization」という概念について議論するのは、それだけで「あなたはコフート理論を分かっていない」といわれかねないそうだ。コフートのいわゆる「双極性の自己 bipolar self」も継子扱い(失礼!)されているという話を聞いたところがある。おそらくコフートが無意識をどのように扱ったか、というテーマも同じ扱いを受けかねないのだろう。(だからこのテーマ、最初から気が進まなかったのである!)
この論文はむしろ別の点から、批判を浴びたという経緯がある。それは「コフートのこの論文は一者心理学的な立場を表明したものだ」というものである。読者のために(ここまで読んでいる人がいるとは到底思えないが)少しわかりやすく言い換えよう。その批判とは、「コフートはそれまでの分析家が患者を観察して解釈という名の処方箋を出す、といった一方通行的な見方(一者心理学、つまり患者一人を治療対象とする考え方)の域を出ていないではないか。コフートがその後の発展を先導したとして後に評価されたのは、患者と治療者の相互的なコミュニケーション(二者心理学、つまり治療者と患者の双方が俎上にあるという考え方)に基づく精神分析のはずではなかったか?」いうことである。
 これをさらに言い換えるとこうだ。「コフートは最初からあまり無意識ということに関心がなかったが、古典的な分析へのリップサービスの意味でこのような論文の書き方をしたのだ。本当は治療者が患者の心に共感し、それを伝えるという相互交流のモデルを作ったのだ。内省・共感が無意識を理解できるか、というのは本来あまり大事な問題じゃなかったのだ」このような意見を述べているのは、ストロロー、アトウッド、オレンジといった本来コフートの弟子であった分析家たちである。彼らがある意味で師匠を擁護しつつ、同時に批判の目を向けていることに注目するべきであろう。そして「そもそも無意識内容をどうして内省・共感できるのか」という疑問についてはおそらく次のような言い方をするはずだ。「それはもちろん大きな疑問だ。それに意識内容さえも、共感によりそれを知ることはそもそも難しいではないか。」
実はこれはコフートの立場のさらに重要な問題に係わる批判である。これまで内省・共感とさらっと書いてきたが、そもそも共感=他人になりかわってその心を内省すること、というコフートの言い方は、決してそのまま受け取ることはできないのだ。話はそんなに簡単ではないはずだからである。
 私は自分の心の中にある気持ちを持つ。それは私自身の心を眺めて(内省して)わかることだ。しかしそれを目の前の誰かが、私になり代わりつつ知ることなんてできるだろうか?私が気持ちをすべて言葉で伝えて、その人が今、私が感じていることを同じように感じ取れることは到底難しいだろう。
ということでコフートと無意識というテーマで書いたが(2回で終わってしまった)、この問題は複雑であまり論じがいのない話である。これから話をアラン・ショアによる「無意識は右脳か?」に戻すが、実はこれがショアによる「コフート派による無意識とは何か」への答えなのである。ショアはコフート派の論客であり、なおかつ発達論者、脳科学者であることは述べた。彼によると精神分析における無意識とは、今後脳科学的な理解へと継承されることで意味を持つ、というわけなのである。(終わり)

2012年7月26日木曜日

コフートにおける無意識 (1)

突然であるが、「コフートにおける無意識」という文章を書きたくなった。(理由は聞かないで欲しい。)ただしコフートは古典的な無意識の議論に反するような「共感」の心理学を作り上げた人である。そのコフートにとっての無意識とは何か、というのは難しく、私にはあまり興味のないテーマである(言ってしまった)。でもこれを急に書きたくなった。(理由は言いたくない。オトナの事情である。)そこで今から数日はこれである。
そこで彼の論文「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,H: Introspection, empathy, and psychoanalysis. Journal of the American Psychoanalytic Association , Volume 7 (3): 459, 1959)に、このテーマに関するそのヒントを探すことにする。この論文は彼の自己心理学に関する最初期の論文にもかかわらず、彼がその後に展開する理論の概要をすでに見通すことができる。そしてこの論文からは、コフートが無意識をその思考から排除しようとしているわけではないということもわかるのだ。排除することなく、でもあまり深刻にも扱わず。実にビミョーな関係がそこには窺える。
この論文でコフートは、とにかく精神分析において内省と共感の重要性をこれでもか、これでもか、と語っている。これから「内省・共感」という表記の仕方をするが、それはコフートにとっては両者が同等の意味を持ち、ほとんどペアのようになって出てくるからだ。コフートはこの論文では、共感を一種の内省だと考えている。共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection」というわけだ。人の心に入り込んで、わがことのように内省をすることが共感だ、と説明するのだ。
しかしそもそもフロイトにより始まった精神分析とは、無意識を理解する営みである。他方内省とは、自分の心の中を見つめることであり、ということは意識内容である。内省を心という部屋の中をサーチライトで照らす行為と考えるならば、そこで照らされる内容は意識化されていること、意識内容ということになる。無意識ならその部屋にある特別な箱に入っていて、サーチライトでも見えないはずだからだ。
ところがこの論文でコフートが主張しているのはそれとは異なる。彼は内省・共感により、無意識や前意識における見えないものをも推論できると言っているのだ。それをコフートは彗星の動きに例えている。彗星が見えているうちに観察していれば、それが見えなくなってもその動きを推察できるようなものだ、と彼は述べている。「私たちは思考とかファンタジーを内省により観察し、それが消えたり再登場したりする条件を知ることで、抑圧という概念に到達する。」 この書き方からわかるとおり、コフートは無意識的な心的内容についても共感できるかのような書き方をしている。そこに直接見えていなくても、「見え隠れする様子」からそれを伺える、というわけだ。
この論文でコフートが出している例が興味深い。彼は上から石を落して、それが下の人に当たって死んでしまったという例を挙げて言う。「もしそこに私たちが共感することのできる意識的、無意識的な意図があったとすると、それは心理学的な行為であったということになる」(P. 208) ここの記載はサラッとし過ぎておそらく多くの読者の目をくらますかのようだ。無意識的な意図を共感する??でもどうしてそれができるのか?共感するとしたら、それはもう無意識的ではないのではないか?それも見え隠れする様子から推察できるのか。模しそうだとするならば、次のように考えることができるだろう。その男が石を落とす様子を観察する。すると明らかに意図的に落としているのがわかる。しかしその人に聞くと、「いえ、偶然落としてしまったのです」、と答えるだろう。その人の心を共感してみると・・・・「私は無意識的に、その人を狙って石を落としてしまった。」となる・・。
しかしその人の心を共感するとしたら「私はワザとなんか石を落としていない」となるのではないか?結局無意識を共感、内省するということはどうしても矛盾しているのではないか、という疑問は残る。「見え隠れする様子」があまりにあからさまなら問題はないかもしれない。でもそれがより複雑でわかりにくい場合にはどうするのか?この疑問に、コフートはどう答えるつもりだったのだろうか?

人は自分の、ないしは他人の心の無意識を共感、内省・共感できるのだろうか、という根本的な問題をバイパスしたまま、コフートは議論を進めている。あたかもコフートのこの論文は、内省・共感という概念を、従来の精神分析理論とほとんど継ぎ目なく結び付けようとする意図があるかのようだ。彼が継ぎ目をなくそうとすればするほど、さらっと読めはするものの、肩透かしを食った感じがし、同様の疑問が大きくなる。
例えばコフートは、「内省・共感を科学的に洗練させたものが自由連想と抵抗の分析である」とも述べている。(自由連想イコール特殊な内省、というのはわかる気がする。しかしいきなり「抵抗の分析」も内省だ、といわれても「もうちょっと説明してよ」という反応が普通だろう。)そしてその特殊な内省・共感により得られたのが「無意識の発見」であったとする。こうして内省・共感と従来の精神分析との概念的な関連付けはわかったが、「どうして無意識内容を共感できるのか」という根本的な疑問には触れられず、先送りされるという感じがする。(続く)

2012年7月25日水曜日

続・脳科学と心の臨床 (59)

再びアラン・ショアの論文を読み出す。彼が強調しているのは、右脳のOF(眼窩前頭部)における共感の機能である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、要するに他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。(わかりやすく考えるならば、脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。)その意味でOFは超自我的な要素を持っているというのがショアの従来の考え方であるという。



眼窩前頭皮質(http://en.wikipedia.org/wiki/Orbitofrontal_cortex より)
さらにはOFは心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つという。自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかという能力。これと道徳的な関心という超自我的な要素とは実は関連している。今自分が言い、行っている事柄が、現実の周囲の人間や周囲で起きている事柄にとってどのような意味を持つのか。いわば外界からの知覚と、内的な空想とのすり合わせを行うという非常に高次な自我的、超自我的機能を行っているのもOFであるわけだ。
読者はここで、右脳の担当する無意識、ということと自我、超自我ということは矛盾していると感じるかもしれない。しかしここは間違えないでいただきたい。意識、前意識、無意識と言うのはいわゆる局所論的モデル、自我、超自我、エスとは構造論的モデル、と言われる。両方は別々のモデルとして心を説明し、しかも両者にはオーバーラップがある。たとえば自我の働きの中にも無意識的なものもある、という風に。ショアが提出しているモデルは、右脳が左脳の支配下で無意識的に、つまりバックグラウンドで実にさまざまな情報処理を行っているという事情なのである。

2012年7月24日火曜日

続・脳科学と心の臨床 (58)


右脳の話はこれからも続くのであるが、ここでちょっと一休みをして、私自身の素朴な疑問。アラン・ショアは偉大な精神医学者で、精神分析、脳科学、発達理論のすべてをカバーしつつ膨大な論文を書いている碩学であることはわかった。心を扱う学者としては最も高い素養を備えた研究者と言える。しかしやはり彼は分析の人間なのである。一般にアメリカにおける神経精神分析学の流れは、「フロイトが言っていたのは、実は~だったのだ」と、結局フロイトを礼賛するニュアンスがある。フロイトが無意識といっていたのは、実は脳科学的にはどこどこの部分のことであった・・・・。でもそれは「フロイトの先見の明は大したものだ」と、古典的な分析家を満足させるのはいいとしても、どうも牽強付会という観を免れない。
右脳イコール無意識という仮説の妥当性を検討する為の一つの素材を提供しよう。いわゆるスプリットブレインという、左右をつなぐ脳梁を切断した人の所見が知られている。彼らの右脳と左脳に別々にアプローチをすることが出来るようになる点が非常に興味深いわけだが、左脳は左脳で指示に応答するし、右脳もまた同様である。ただ左脳には言語的にアプローチするのに対して、右脳には非言語的に、たとえば絵などによりアプローチするだけだ。右脳は右脳で、左脳は左脳で、それ自身が覚醒できるのである。よく引き合いに出される例では、患者の左手が奥さんの首を絞めようとしていて、右手の方は、その手を振り払おうとするといった動作が見られる(The Right Mind. Robert Ornstein. Hartcourt Brace & Company, 1997.)。
これは一見精神分析的にも説明できる気がする。右脳の無意識は奥さんの首を絞めようとする。左脳の意識はそれを止めようとする。この人は脳梁を切断する前には、奥さんの首を絞めたいという無意識的な願望を常に抑圧していた、ということになるだろう。しかしこれほど単純なのだろうか。たとえば同様の動作は多重人格の人々にも見られる。とすれば右脳は右脳で一つの意思を持った人格を形成しうる、とは考えられないだろうか。それとも左右の脳は、脳梁という連絡路が存在している限りにおいて、左の言語脳が右の感情脳を押さえ込むという形で、右脳に無意識的な役割を与えるというわけであろうか?

2012年7月23日月曜日

続・脳科学と心の臨床 (57)


さて、気を取り直して、このショアの論文を読んでみる。それによるとアメリカのゲドーGedoという有名なコフート派の分析家は、精神分析を多方面に広げた要因として二つが考えられると言ったという。一つは乳幼児研究であり、もう一つは中枢神経の研究の発展である。その中でショアが特に主張するのが、無意識と、情緒をプロセスする右脳との関連であるとする。おそらくこれが右脳の最も重要な機能の一つと言えるだろう。
 ところで読者はそもそも脳がどうして右脳と左脳に分かれているのかを不思議に思うかもしれない。それはよくわかっていない。しかし一ついえることは、左右脳の機能分化はかなり明確で、しかも相補的であるということだ。あたかも神が心のあり方の二重性、いわばロゴスとパトスの二つのために、左右の脳を分けたかのようである。右脳の感情的な情報の処理については、たとえば顔の感情を読み取る力は右脳が圧倒的に優れているという。そしてそれだけでなく、表情で感情表現をする際も、右脳の働きが大きい。そこで次に問題となるのが言語だ。「感情が右脳なら、言語は左脳だろう。言語野も左脳にあるだろうし。」ところが必ずしもそうとはいえない。言語機能はむしろ左右脳にまたがっているというニュアンスがあるという。言葉の意味をつかさどるのはもちろん左脳の方だ。しかし感情的な単語を処理するのは右脳であるという。
さらに身体感覚についてはどうか?右脳は身体マップを有して身体レベルで生じていることを常にモニターしているという。つまり感情、身体、それに言語の情緒的な側面まで右脳の支配下にあることになる。
こうした論拠から、ショアは次のように提案する。「フロイトの言う力動的な無意識は、右脳に存在する、階層的で自己組織化する調節システムが各瞬間に行っている活動に相当する」。他方面白いことに、フロイトは自我を左脳の言語野に相当するものとしているというから、フロイトもある意味では同様のことを100年以上前に考えていたと言うことになる。
 ところで無意識が右脳、意識が左脳、ということになると両者の力関係はどうなるのだろうか?右脳と左脳の間には、脳梁という3億本(うろ覚え)の神経回路の束がある。それが左右の脳の交通路と言うわけだが、それらはお互いをけん制したり、活性化したりということが起きているらしい。(Bloom, JS and Hynd,GW: The Role of the Corpus Callosum in Interhemispheric Transfer of Information: Excitation or Inhibition?  Neuropsychology Review, Vol. 15, No. 2, June 20055971) たとえば左脳の活性化は時には右脳を抑制することが知られるが、それが精神分析でいう抑圧に相当すると言うことである。でもそれを言うならば、感情的に高ぶると言語野が抑制するという研究もよく知られている。いわば抑圧の逆方向というわけであるが、これは分析的にはどのように概念化されているかといえば明確ではない(少なくとも私の知識では。)この例に見られるように、右脳を無意識に置き換えるという作業は、これまで精神分析が漠然と概念化してきた無意識の内容を一気に複雑にしてしまう可能性を秘めているだろう。

2012年7月22日日曜日

続・脳科学と心の臨床(56)

右脳は無意識に相当するなのか?

このテーマ、実は書き出すのが少し気が重い。よくわかっていない。「うん、面白い、書きたい」という盛り上がりが、まだない。ただ時代はこの方向性なのだ。フロイトの無意識を脳科学的に考えるとしたら、それは右脳である。うーん、よくわからないが、オーンシュタインやショアなど複数のエキスパートが言っているし。それにこんな本まで出ている。早速注文したけれど。


その種の論文を書かなければならないし、この「続・脳科学と心の臨床」の最後の一つの重要なテーマにはなるし・・・ということで書き始めよう。

でも無意識って、概念としてはもうあんまりピンと来ないんだよね。分析家の癖にそんなことを言うなんてとんでもないことはわかっているけれど。だって無意識って、もう脳全体、という感じなんだもの。無意識が不思議だったら脳が不思議だ。右脳が不思議、というんだったら左脳だって不思議じゃん。言葉=意識=左脳、というのは安易すぎる気がする。そこらへんを省いて一気に「無意識は右脳でござい」というのはどうも納得がいかない。でもこの本「The Right Brain and the Unconscious: Discovering The Stranger Within」をぱらぱらめくったら少し考えが変わるかもしれない。それにその前に私は読まなくてはならない本がある。Alan Schoreの本Affect Dysregulation and Disorders of the Self “ (W.W. Norton & Company, 2003) の第8章“The Right Brain as the Neurobiological Substratum of Freud’s Dynamic Unconscious”である。





2012年7月21日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (55)


心理士への教訓)

DBSについて知った心理士はどのように面接態度が変わるのか?ウーン、あまり変わらないのかもしれない。しかし少なくとも心因論的な姿勢は少し弱まるのかもしれない。
今朝もある患者さんがやってきてこんな話をした。「先週から急にズドーンと落ちたんです。この三日間は起き上がれないくらいです。」彼女は30代後半の独身女性で飲食店勤務。このところは抗うつ剤の影響もあり、少しハイなくらいに働いていた方だ。落ち込みについて思い当たるきっかけを聞いても本人もわからない。お店でトラブルに陥ったこともなく、家で同居している母親とけんかをしたわけでもない。このところ順調だなと思っていた矢先である。
別のケースはこんなことを行った。「気持ちのスイッチは突然入るんです。自動販売機でジュースを買って、それが下の受け口に落ちてきたその瞬間に、気持ちがすっと軽くなったんです。」
このようなケースに色々心因を問うことの意味はあまりない。きっと脳の中にいくつもあるであろううつのスイッチが押されてしまったのだ。そしてそのスイッチが脳のどこにあり、どうしてスイッチオンになったかはわからない。それはブロードマン25野というところ、内側前頭前野という部分であるかもしれないし、そうでないかもしれない。彼女に、ではDBSを受けてもらうのか?でもそれはやはり大変な手術なのだ。自分の家族が鬱になってDBSを受けるとしたら絶対躊躇する。(私自身だったらやってみたいが)。だって脳に電極を植えられ、皮膚を伝ったコイルで体に電池が埋め込まれ・・・・。やはりつらい。しかし、である。慢性うつで数年間も社会生活ができない人がいる。そういう人にとっては皮下の電池がなんだ、とも考えられる。
実は「薬を飲む」ということに関しても、レベルは全然低いにしても同じ侵襲性、そこに伴う「何もそこまでやるなんて…」「体にそんな異物を入れて…」感がある。私は家族が鬱になっても薬を飲んでもらうことに多少躊躇する。(私自身だったら全然平気だが。)

2012年7月20日金曜日

続・脳科学と心の臨床 (54)

  ところで読者は私の不埒な空想のことを覚えているだろうか?オールズがネズミの脳に行ったように、人間の快感中枢に電極を差した人はいるのだろうか?バーンズの本にはそのことが載っている。
 米国ルイジアナ州のニューオーリンズにチューレーン大学があるが、そこで1950年代に初めて精神科と神経内科を合体させたのがロバート・ヒースだった。彼がこの話の主人公である。脳の深部、脳幹に隣接して中隔野という部位があるが、ネズミでそこを壊すと激しく興奮することが知られる。逆にそこに電気刺激を与えると…・うっとりしてしまうというのだ。そして彼が注目したのも人間のこの部位であった。その実験のフィルムが残っているという。ストレッチャーに横たわる若い女性の姿。その脳には電極が埋め込まれていて、そこに電気が流れるようになっている。以下はバーンズの著書からの引用。

女性は微笑んでいた。「なぜ笑っているんですか?」とヒースが尋ねる。「わかりません」と彼女は応えた。子供のように甲高い声だった。「さっきからずっと笑いたくってしょうがないんです。」彼女はくすくすと笑い出した。「何を笑っているのですか?」女性はからかうように言った。「わかりません。先生が何かなさったんじゃないの。」「私たちが何かしていると、どうして思うんですか?」・・・
こうして実験は続けられたが、ヒースと彼女の会話には明らかに性的なものが感じられたという。ヒースは他の患者にも中隔野への刺激を行い、その多くはそれを快感と感じたというが、反応は人それぞれであったらしい。電極をほんの12ミリ動かしただけで、むしろ苦痛の反応を引き起こしたりする。中にはそれにより激しく怒りを表出した人もいて、ヒースの実験を非人道的であると非難する学者もいたという。
結局バーンズの本からわかることは、快感中枢に電極をさして最後を迎えるというアイデアはうまくいきそうにないということである。彼の記述の重要な指摘を再び引用する。
「特に人間の場合に顕著な脳深部刺激のこうした不安定さから、痛みと快感は、脳の別々の部位に存在するわけではなく、むしろ同じ回路の様々な要素を共有していることがわかる。」(139ページ)
脳深部刺激はそれ自体がまだ非常に粗野で大雑把な技術でしかない。極めて複雑な集積回路の中にドライバーを突っ込んで電気を流すようなところがある。たまたまそれはある部位に行なうことでPDの症状を軽減するという福音をもたらした。しかしそれを人の心をコントロールするレベルに持っていくためには、まだまだ前途多難という気がする

2012年7月19日木曜日

続・脳科学と心の臨床 (53)

DBSについてもっと知りたければ、機械を扱っている専門のMedtronicという会社のHPに行けばいいだろう。ここに行くと、現在DBSの適応となっているものは主として、PDの他に本態性震戦(ヘンな名前だが、要するに原因不明の手の震え)、そして例のジストニアであることがわかる。そして治療の主眼は、PDジストニアに関しては、STN subthalamic nucleusと内側淡蒼球globus pallidus interna、本態性震戦には視床の視床中間腹側核腹側間接核ventral intermediate nucleus of the thalamus をターゲットにしているということだ。(全部脳の深いところにあり、働きは詳しくはわかっていないが、体の動きを調節することに役割を果たしている部分である。)ちなみにこのMedtronicという会社、心臓のペースメーカーをはじめとした医学機器の最大手ということである。DBS等にもこんな会社が入って利益を競っているということだ。

 ここで深部脳刺激、という検索語で日本のサイトを調べてみると…あるある。Medtronicの日本支社メドトロニックのホームページや、日本で深部脳刺激の術式を行っている順天堂大学、東京女子医科大学、名古屋市立大学、山口大学、藤田保健衛生大学など。2000年4月からは、PDの治療としては保険適応にもなっているという。(英語のサイトだけ見る、などと嘯いていた私が愚かであった。)写真入りの非常に細かい手術のプロセスについては、http://www.twmu.ac.jp/NIJ/DBS/DBSOPE.pdf を参照。最初からこちらを見ていればよかった。一見の価値あり。ただし少し気持ち悪くなるひとがいるかもしれないが。

いろいろ見た後での感想。DBSについてはPDに対する効果から始まり、その効果自体が確立しているということもあり、一つの治療法として定着している。しかしそれ以外の効果については、たとえばうつ病のそれについてもこれからまだまだ可能性が広がっているという印象を受ける。

このように考えるといい。脳とはきわめて複雑でその仕組みの細部は全然わかっていない精密機械のようなものである。そこのどこのボタンをいじれば何が起きるかはわかっていないし、それを知るための人体実験は現実には不可能である。その昔一人の勇気ある人間がそれをやり、PDに有効であることがわかった。でもそれ以外の部位を刺激して他の病気の治療を試験的に行うことには極めて慎重でなくてはならないし、患者の人権の尊重が叫ばれる現在では、実験的な試みは更に難しくなっているというところがある。言いかえれば、これからどのような発展があるかわからないが有望な分野である。

2012年7月17日火曜日

続・脳科学と心の臨床 (52)

さてうつ病のDBSであるが、PDなどと違ってこちらはまだ始まったばかりという印象を受ける。今年の1月にサイエンティフィックアメリカンの電子版に乗った記事を参考にしよう。http://blogs.scientificamerican.com/scicurious-brain/2012/01/09/deep-brain-stimulation-for-major-depression-miracle-therapy-or-just-another-treatment/


まずうつ病に関しては、60%しか現在の治療に反応しない、という現実がある。現在の治療とは抗うつ剤やCBT(認知行動療法)や電気ショック療法など、現在知られている治療である。ということは40%の人たちはうつにじっと苦しみ、自然と回復するに任せていると言うことである。この40%を対象にDBSが行われるということになる。
内側前頭前野(赤の部分)


DBSで最初に注目されたのは、ブロードマン25野というところ、内側前頭前野という部分である。図の赤い部分を参照(図はhttp://www.ask.com/wiki/Prefrontal_cortexより)。ここがなぜ注目されているかというと、この場所が大脳皮質と、それ以下の大脳辺縁系や脳幹とをつなぐ節目のような枠目を果たしているからだという。だからそこを刺激することで脳の広い範囲に影響を与えるという。ラットの実験では、この部位に相当する脳に刺激を与えることで、「ネズミうつ」に対する効果があったという。ネズミうつとは、例えば強制水泳テストに対する反応で分かるという。抗鬱剤を投与されたネズミは、このテストの反応が良くなるということで、ネズミのうつ病モデルとして用いられるという。この臨床テストでは、20人の難治性うつ(つまり従来のうつ病治療に反応しない40%のうつ病に相当する状態)の60%は顕著な抗うつ効果を見せたという。しかしこれは20人のうち12人を引いた8人にはいい結果をもたらさなかったということでもある。そしてそのうち一人は電極を抜いてほしいと申し出たという。ちなみにDBSの副作用としては吐き気やおう吐がみられ、また結局20人のうちの二人は自殺をしたということである。

続・脳科学と心の臨床(51)


ちなみにDBSで脳に電極をさす、と言ってもピンと来ない方のために、メンフィス大学のサイトから図を引用する。こんな感じだ。



Thalamic nucleiとあるのは視床のことで、その下の視床下核に針の先が当たっていて、そこが電極になっているということだろう。そこから一定のパルス信号を出すことで刺激を与える。
http://www.memphis.edu/magazinearchive/v29i1/feat4.html
現在ではPDDBS治療は世界中で行われている。2万人のPDまたは運動障害の患者がこの治療を受けているという。またこの間までこのブログで書いていたジストニアなどに用いられることもあるという。しかし何しろコストが高いということで、受けられる人はわずかであるという。
ちなみにPDといえば、マイケルJフォックスのことを思い出す方も多いのではないか。「バック・トゥー・ザ・ヒューチャー」の三部作は映画嫌い(あまりイナイ)の私でもファンだが、あそこに出てきた元気のいい少年が、PDに侵されたものの、そこからPD撲滅の運動を繰り広げているのはよく知られる。彼もインタビューに答えてこのDBSの治療を受けたと語っているが、やはりお金持ちの治療法というニュアンスは否めないのかもしれない。

2012年7月16日月曜日

続・脳科学と心の臨床 (50)

 いつかどこかで私は次のようなことを書いた。「もし私が余生に思い残すことがないのなら、私自身の快感中枢を電気刺激してみたいという気持ちがなくはない。」そう、一時間に2000回レバーを押し続けたラット状態になるのだ。その代りにリモコンボタンみたいなものを持って床に就くのだ。

これほど甘美な、そして不埒な空想はあるだろうか?これって、アヘン巣窟に身を横たえてパイプを咥え続けているアヘン中毒患者のようになりたいと言っているのだ。しかしそれにしても、それを人間で実験したトンでもない科学者はいたのだろうか?実は先ほど紹介したバーンズの本はそれについて書いてあるのであるが、その話はもう少し先にとっておこう。いずれにせよ脳の一部に電極を差しこんで何らかの刺激を送り込むということが、ある種の劇的な変化を生むということは、こうして知られるようになったのである。

話をまじめな方向に戻して。DBSの臨床的な応用にはそれなりに面白いストーリーがある。以下もネットからの情報だが、私は一応英語のサイトを主に参考にする。これでも十分安易だが、日本語のサイトの引用だと、だれでもできるだろう。一応人が読みにくく、できるだけソースに近いものを、と考えている。以下の内容はhttp://www.parkinsonsappeal.com/pdfs/The%20History%20of%20Deep%20Brain%20Stimulation.pdfから。

1983年に、MPTPという物質が発見されてからパーキンソン病のDBSの治療に向けての大きな進歩があった。それをサルに与えると人工的にPD(パーキンソン病)を作れる。すると治療が動物実験で飛躍的に進むというわけだ。するとサルのSTN subthalamic nucleus (日本語で視床下核)の刺激でPD症状が劇的に改善するということが分かったのだ。それから臨床研究が進んで、1997年にはアメリカのFDA(日本で言えば、厚労省に相当)で認可が下りるということになったのである。

2012年7月15日日曜日

続・脳科学と心の臨床(49)


DBS(脳深部刺激)への期待(2

 ところで脳深部刺激の話になると、やはりオールズの実験にさかのぼらなくてはならない。しかしこれは快感中枢の問題にも関係しているために、私自身そちらに流されないようにしなくてはならない。(快感中枢の話になると、とたんに熱を帯びてしまうのだ。)ちなみに私が以下にさもわかった風に書くのは、ネタ本「脳が『生きがい』を感じるとき」(グレゴリー バーンズ (), 野中 香方子 (),日本放送出版協会、2006年)の助けがあるからだが、このテーマでは最良の本だと思っている。

オールズの実験とは、ラットの脳に電極を差し、快感中枢を刺激したら、ラットは死ぬまでそこを刺激するバーを押し続けた、という例の実験である。おそらくこの実験が革命的であったことは間違いない。それまでどうやら脳というのは、そのどの部分を刺激しても不快感しか生まず、ネズミはそれを回避する傾向にあったという。

1952年というから、もう半世紀も前のことである。若く野心的な心理学の研究者ジム・オールズは、動物の動機づけを知る上で、網様体賦活系というところを刺激することを考えていた。そしてその部分に電極を差したつもりになっていた。そしてラットの反応を見ていると、どうやらその刺激を欲していることをうかがわせる行動を見せた。そこでラットをスキナーボックスに入れてみた。スキナーボックスには様々なレバーや信号や、それによる報酬を与える仕掛けが備わっている。そこでレバーを押すとラットの脳の該当部位に信号が流れるようにした。すると・・・・ラットは一時間に2000回という記録的な頻度でレバーを押すようになったのである。

さてここまで書くと、きっとニヤッとした人はいると思う。過去に私もこのブログで確か書いたことであるが、「では私の脳にも電極を・・・・」という人がいてもおかしくない。

続・脳科学と心の臨床(48)

DBS(脳深部刺激)への期待


もう10年ほど前、米国にいたころである。あるテレビのドキュメンタリーに釘付けになってしまった。ある男性が見るからにロボットのように固まってほとんど口をきけないでいる。それから体につけた装置のスイッチを押すと、うそのように体がやわらかくなり、普通の話し方になる。そしてまたスイッチを押すと、再びカチカチに固まってしまう・・・・。ドキュメンタリーではそれまで重症のパーキンソン病に苦しんでいたその男性が、治療を行ったことで乗馬もできるようになったというシーンを映し出していた。私はそれまでDBS(脳深部刺激)という治療法については精神科医として常識の範囲で聞き及んでいただけであったが、それがはじめてその驚くべき効果を目にした瞬間だった。
その後に別の番組で、今度はうつ病の患者が同じようにDBSにより、それこそスイッチのオン、オフのようにうつ症状が回復するのを見る機会があった。うつ病といえば精神科領域である。これを知らないわけには行かない。
DBSとは脳の奥深く電極を差し込んで、電気刺激を与えるという治療手段である。考えようによっては、これほど野蛮な治療はないとお考えかもしれない。それはそうである。脳とはおそらく身体の中でもっとも精密で繊細な臓器である。そこによりによって長い針を突き刺すのである!!「大体どこにどの方向でさすのだろうか?それに痛くないのか?出血は???」ただし幸いなことに脳の実質は痛みを感じない。頭痛は脳の血管や髄膜が刺激されたときの痛みであり、脳ミソそのものが痛みを感じるわけではない。それにDBSが可能になったのは、最近のMRIとかCTとかのテクノロジーの進歩によるものだ。一人ひとりの脳について、そのどこにどの部分が位置しているかの3次元マップがかなり正確に作れるようになった。するとどの方向にどれだけの長さで針をさすことで、どこに到達するかということがわかるようになったのである。

2012年7月13日金曜日

続・脳科学と心の臨床(47)

(臨床家への教訓)

「緊張すると手が震えるんです」という来談者の訴えに、私たちは「そんなことは、練習を繰り返せば何とかなるでしょう。がんばって経験を積めば、度胸がついて震えるなんていうことはなくなりますよ。」などと言いそうになりはしないか?常識的に考えればそうである。慣れないから緊張し、手が震える → 慣れればそんなことはなくなる、という常識。おそらく軽い震えについてはそれでは何とかなる。しかし深刻な震えはそうではない。イップス病は練習すればするほど悪くなる、というところさえある、と田辺医師(上述)の本にある。イップス病に悩まされる人の数は多くは経験豊かなプロのゴルファーであるというところが不思議なところだ。そしてそれが不思議な脳の配線異常に由来する。臨床家としては脳科学の神秘さと計り知れなさを認識し、その治療を専門家にゆだねるべきだろう。
 ここでの教訓は、私がこれまで繰り返してきたことに近い。「頑張れ」とか、「努力不足だ」とか「もっとポジティブに物事を捉えよ」という常識的な対応を心理士は控えよ、ということである。緊張すると震える、という来談者の悩みを真摯に受け止めよ、というしかない。その一方でイップス病のような不思議な脳の病態について知っておくこと。脳の専門家になる必要はないが、「脳科学オタク」くらいにはなっておくこと。心理士は脳科学の専門書を紐解く必要はない。脳科学オタクに毛の生えたような私が書く本程度でいいのである。

2012年7月12日木曜日

続・脳科学と心の臨床(46)


イップス病についてはそろそろおしまいにしようと思っていた時に、注文していた本「イップスの科学」(田辺規充著、星和書店、2001年)が届いた。手軽な本ですぐ読み通せたが、やはりご本人が精神科医でゴルファー、そしてイップス病に苦しんだだけあり、非常に説得力がある。ゴルファーにより様々なタイプのイップスが起き、パターだけではなく、例えばドライバーイップスなどは、スイングでドライバーを振りかぶったまま、クラブが下りてこずにそのまま固まってしまう、ということまで起きるという。ゴルフクラブを振り上げたままウンウン唸っているゴルファーを周囲は怪訝そうな目で見るというわけだ。
 結局これは緊張感を強いられるようなあらゆる活動や職業に現れ、例えば書痙ならwriters’ crampだがこれがタイピストに起きると、タイピストの痙攣Typists’ cramp, 音楽家だと音楽家の痙攣musicians’ cramp、全部まとめて職業痙攣 occupational cramp などと呼ばれるという。その脳科学的な機序としては多分に想像を交えたうえで次のような解説がされている。
「ショートパットを毎回緊張して沈めているうちに、そのストレスが大脳辺縁系を刺激し、神経回路の再構成が起こり、やがて手に痙攣が起きるような神経伝達の閉鎖回路が出来上がるのです。」(74ページ)
この表現は精神科医としてはいまいちわからないが、結局イップスとは次のような病気としてまとめることができる。「一種の脳の配線異常。緊張することで大脳辺縁系の興奮が高まると、その活動に必要な筋肉に異常な信号が発せられてしまい、それが固定して治らなくなる状態。」そして治療としてはその回路を無効にするようなあらゆる手段が取られる。実に涙ぐましいが、それなりに理にかなった様々な方法が田辺医師の本には記載されているのだ。


2012年7月11日水曜日

続・脳科学と心の臨床(18-1)

(18)の補足 オキシトシン VS 男性ホルモンか?



★ 2011年9月13日のニュースだから少し経っているが、興味深いニュースを見つけた。(http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-23165820110913


「[シカゴ 12日 ロイター] 男性は父親になると男性ホルモンが低下し、生物学的に子育てに適応するようになることが、米ノースウエスタン大学が米国科学アカデミー紀要に発表した研究結果で明らかとなった。同大学の研究チームは、フィリピン出身の男性600人以上を対象に5年にわたり調査。調査当初に父親の人はいなかったが、その後に父親になると、少なくとも短期的には男性ホルモンであるテストステロンの減少がみられたという。研究を行ったリー・ゲトラー氏は、テストステロンの数値が高かった男性ほど父親になる確率が高かったが、いったん父親になると、その数値は大幅に減少したと指摘。「父親になり、新生児を迎えることは、多くの精神的・身体的な調整を必要とする。われわれの研究は、男性が生物学的に、そういった必要性に対応しようと実質的に変化しうることを証明した」と語った。シェフィールド大学のアラン・パーシー博士は、通常テストステロンの量はあまり変化しないとし、「年齢の経過などとともに徐々に減少することはあるが、家庭生活に応じて劇的に変化するとは興味深い」と語った。」


長い引用になったが、いくつかの示唆がここにある。以下が私自身の仮説。一つはテストステロンの低下が攻撃性の低下につながり(これ自体は実証済み)、それが子育てに有利に働くという可能性。もう一つはテストステロン=男性性が、男性から優しさや母性性を低下させる働きがあり、いわばオキシトシンと反対の役割を果たすことになり、その低下が結局はオキシトシンの上昇と似たような効果を与えているのではないかということである。それにしても実に人間の体は上手く作られているものである。